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Date: Monday, 28 Jul 2008 04:24

先月、仕事の関係で少しまとまった時間を欧州で過ごす機会があり、その時にアフリカ・中南米を含めた世界中のかなりインテリジェントな人たちと長時間一緒に議論した。当然ながら日本人として自分の英語の出来なさ加減にうんざりしたりとかいろいろあったわけだが、北欧・東欧あたりの歯に衣着せない物言いをする人たちから「酷い英語だね」と面と向かって言われたりしたこともあり、さすがに(その通りだとは分かっていたが)彼らに正面切って聞いてみた。「そういうあなたはどうやって英語を身につけたのさ?」

典型的日本人として予想していた答えは「小学校から英語を勉強してるよ」とかそういう類いの(日本の"ダメダメな"教育制度に責任を押しつけられる)ものだったが、この予想は見事に裏切られた。「英語の勉強なんて高校から始めた」とか、そういう人がほとんどだったのである。

もちろん彼らも流暢な英語をしゃべるわけではなく、いやむしろはっきり言うと僕みたいな日本人が聞いていてさえ分かるほど「酷い発音、酷い文法」の英語だったりもするのだが、それでも場の議論の内容を踏まえて言いたいことは言いたいスピードでちゃんと言えるレベルであり、しかも相手の言うことをきちんと受け止めて議論し、時にはジョークだって言う。彼らに言わせると、アメリカ人のしゃべる英語は「米国語」であり、英語ではないとのこと(笑)。

冗談はともかく、ではなぜ彼らは、高校ぐらいから英語を勉強し始めるにもかかわらず仕事で議論できる程度の英語がちゃんとしゃべれるようになるのか。その理由を聞いてみると、多くの人が同じような答えを言うのに気づいた。「小さい頃からハリウッド映画やCNNなどのテレビ番組を英語で見ていたから」というのだ。もちろん、彼らは自国語で使う文字も基本的に同じアルファベットだから、日本人よりも自国語と英語の間にある壁も低いのだろうが、それにしても家族や学校などが自国語の環境であるにもかかわらず英語をしゃべれる・聞けるようになるのは、日常触れているマスメディアに英語が流れている影響が大きい。

なぜそう言えるかというと、いろいろな国の人たちの英語での会話力を見比べていると、フランスやドイツなど、経済的に明らかに大きくて、「ハリウッド映画が自国語に吹き替えられている」割合の多い国の出身者に比べて、北欧や東欧、アフリカなど、自国の言語はせいぜい字幕を入れるのが精いっぱいで、場合によっては英語のソフトをそのまま輸入して上映・放送するしかないほどの国の出身者のほうが、明らかに英語が上手という傾向があったからだ。

もちろん、会議の席での発言頻度や積極性にはそれ以外の要素も大きく絡む。アジア系は皆同じ国の出身者同士でつるむ傾向があり、発言も求められなければ滅多に自分から言い出さないのは日本人に限ったことではない。北欧系の人たちは、場の空気とかまったく読まないし、自分がこういう発言をしたらその裏の意味をどう受け取られるかとかを全然考えずにずけずけと思ったことをそのまま口に出して言う。

「英語で会話する」というのは、そうしたコンテクスチュアルな側面も含めて「口に出さなきゃお前の考えてることなんか分からない」という欧米の文化を受け入れるかどうかの問題であり、100%の適応は日本人には無理だということは分かっている。ただ、別にそれは日本人に限ったハンディでもないし、それ以上に「日常的に英語を聞く環境があるかどうか」ということが、国際会議などの場での英語の議論について行けるかどうかの基礎力を左右するのだということがよく分かった。

そう考えてみると、日本というのはつくづく恵まれた国だなと思う。ハリウッド映画のほとんどは吹き替え版で提供されるし、吹き替えで原作を超えるほどの演技を披露できる声優すら両手に余るほどたくさんいる。テレビも、CNNやBBCをいちいち衛星放送で見る必要すらないほど、世界中のニュースが地上派で無料で(しかもご丁寧にほとんどの外国人の話が吹き替えられて!)垂れ流されている。これほどの規模であらゆる外国語の吹き替え番組を作るだけの国力がある国というのも、世界広しと言えどもそうそうないと思う。素晴らしいことだ。

もっともその中には、外国の学者の発言を全然違う意味に吹き替えて納豆のダイエット効果を証明するのに使った「あるある大事典」みたいな番組も出てくるし、中国様関連のニュースは中国様のご意向に逆らわないように取捨選択・修正して放送する某民放みたいな放送局も出てきたりといった弊害もあるわけだが、そんなことは些末な話だろう。

ただ僕の思うに、問題なのは日本人が「恵まれすぎている」ことだと思う。強みはある日突然足かせに変わる。その「ある日」は、最近自民党国家戦略本部が画策している「移民1000万人受け入れ計画」によってもたらされるのではないかと考えている。民主党も基本的には同じような考え方を以前から提唱しているから、この政策がついに自民党内から出てきたという時点で、ほぼ実現が決まったと言っても過言ではなかろう。この政策についての(ある程度積極的な立場からの)解説は、katoler氏のブログのエントリ「第三の開国へ、内向きの日本志向、情緒的な鎖国主義を排せ!」がよくまとまっているのでここに紹介しておく。

移民の受け入れ制限の緩和については、これまでも「単純労働者を受け入れると日本人のための雇用が失われる」といった批判が強く、実現してこなかった。しかし、いよいよ人口減少が本格化し、このままではそもそも国内で雇用したくとも人がいないという状況が今後各方面で深刻化するのは火を見るより明らかであり、それがこういった議論に真実味を帯びさせている原因だろう。森永卓郎がどういうロジックで鎖国論を唱えようが、もはやこの話は「蓋然性の高い未来」としてあると受け止めたほうが良いだろうと僕は思う。

ただ、自民党としてもこうした反対論に対しては「対策は講じていますよ」というポーズは取らざるを得ないだろうから、いろいろなアドバルーンが上がることになろう。既に上がっているものとして「単純労働者でも日本語ができる人しか受け入れません」というものがある。まあ、こんな意味不明なルールは1000万人という需要の前になすすべもなく崩壊するのは分かっているからどうでも良いのだが、1つのヤマ場になるだろうと思うのが、医師や国際弁護士や教師・学者といった、国内でも優秀な人材が足りなくて困っているサービス系高度専門職人材の受け入れだ。

ここはこれまで受け入れそのものは自由だったにもかかわらず、国内の業界団体が受け入れを抵抗しまくってきたがゆえに国際的な人材獲得競争で完敗している領域である。単純労働系の移民受け入れが本格化すれば、その人たちが求める社会的サービスの必要性も高まり、これらの高度専門職系の職業にも需要が生まれるだろう。「日本語ができる」なんて形だけであり、実際には日本人がこれらの移民向けサービスニーズに対応するより海外から専門家を受け入れたほうが対応は早いに決まっているから、遅かれ早かれこうした専門職人材の受け入れのハードルも下がるに違いない。つまり、結局は全産業分野にわたって労働市場が開放されるだろうということだ。

考えてみれば良い。今日本が受け入れている移民の出身国を見ても、1000万人の移民のうち恐らく9割以上は英語かスペイン語か中国語の3つの言語のどれかを母語または母語並みに使える人たちであることは容易に想像がつく。3等分して300万人以上の人々がそれぞれ、口々に「英語と中国語とスペイン語で受けられる社会的サービスがほしい」と主張したら、この3カ国語は世界的なレベルでさまざまな社会インフラ的なサービスが開発されて切磋琢磨されているから、そのプラットフォームに乗って人を受け入れ、サービスを提供したほうが、国内で日本人がゼロから対応するよりもはるかに効率的だ。政府の主張する「あなたたちは日本語ができるはずでは」などという建前は一瞬で吹き飛ぶであろう。

さて、問題はその時に「日本人はどうなるのか」である。もし言語的なハードルが実質的になくなれば、国内でも誰もが容赦なく国際的に共通のサービスプラットフォームの上での競争に晒されることになる。別に日本人の能力が海外に比べて劣っているとはまったく思わないが、「英語/スペイン語/中国語の土俵に乗って戦えるか」というレベルで比較されるのであれば、現時点ではほとんどがそもそも「競争の土俵にすら上れない」ということになりかねない。移民を1000万人受け入れるという決断を下すのであれば、少なくとも「日本語を前提としない社会」の出現を前提に日本人をあらかじめトレーニングしておくしかないと思うのだよね。

その準備で一番簡単にできることは、小学校から英語を習わせることではなくて、実は「テレビや映画での海外ソフトに対する日本語吹き替えを禁止する」こと、さらにできれば「国内のあらゆる番組を日本語以外に3つの言語のどれかもう1つで同時提供することを義務づける」ことではないかというのが、最近の僕の考えだ。

あらゆる外国映画を吹き替えではなく、英語や中国語などの原語で(字幕付きで)見ざるを得なくなり、またテレビ番組も副音声に切り替えさえすれば外国語で流れてくるような状況になれば、子どもだけでなく大人だって自然に英語や中国語、スペイン語などを聞く耳ができると思う。テレビメディアの影響力は落ちたと言われるが、それでも子どもを日常的に外国語に触れざるを得ない状況を作り出すぐらいのことは、まだ十分できるだろう。

確かにフルタイムの多言語対応はコンテンツ制作に大きなコスト負担になるかもしれないが、官民合わせて1兆円にも上ろうという地デジへの投資を止めれば、すぐに何とかできるレベルではないか。また最近社会的な信頼を失っているように見える日本のマスコミもこれで日本人の国際競争力向上に貢献すると胸を張って言えるだろうし、作り出すコンテンツ自体のグローバル競争力も上がって一石二鳥なんじゃないかな。あとついでに、外国語の映像をネタにファクトをねつ造するとかも防げるって考えると、一石三鳥になるかも(笑)。

逆に、そのぐらいのことをやらないままで日本の(特に国内のサービス産業の)労働市場を開放すれば、遠からず日本人は「日本語という難解なローカル言語をしゃべる生産性の低い国民」ということになって、国の富の上澄みはすべて英語や中国語をしゃべる優秀な人材に取って行かれるということにもなりかねない。労働市場を開放するというのは、単純に言えば「日本人のお金を日本人が海外で使う・海外のモノを買う分だけ取るのではなく、海外の人が日本に来て巻き上げることも認める」ということなのだから、そういう事態が起こることも想定すべきと思うのだけれど、自民党議員の皆さんは分かってるんでしょうかね。正直あまり分かってなうわなにすrzわえsxrdcftvgびゅhんじmこ

Author: "R30" Tags: "メディアとネット"
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Date: Sunday, 25 May 2008 22:30

グーグルに勝つ広告モデル マスメディアは必要か 最近、久しぶりにテレビや新聞、雑誌などマスメディア各方面の関係者の集まる席に顔を出す機会があったのだが、なんだかそこで話を聞いていると、僕がメディア業界を離れてからまだ3年ばかりしか経っていないのに、マスメディアの内部というのはかなりひどい勢いで人材の劣化が進んでいるんだなあと思わされる話ばかりだった。出席している人たちはそういう業界動向からやや距離を置いていたり、既に引退されたりしている人が多かったのだが、僕よりもかなり前に引退された方にとっては、そこで関係者から次々報告されるエピソードや結構な地位の責任者の仰天発言などに、目を白黒させて「信じられない」といったふうだったので、まあ信じられない事態が進行中なのだろう。

 そういう最近のマスコミの絶望的な雰囲気に当てられてからこの本、『グーグルに勝つ広告モデル』を読むと、何という天使のような優しきオプティミズムに立った本だろうと感動する。皮肉で言っているのではなく、心からそう思う。帯には「消費者がわからない、モノが売れないと悩む人、広告・マスコミ関係者必読!」とあるが、ひたすら「あっち(ネット)側」の世界の知についてのオプティミズムを語る梅田本などより、それなりの責任ある地位にいるマスコミ人の方々には、帯のとおりむしろこちらの本をこそ熟読してもらいたいと強く思う次第だ。これを読んでまだ何か動き出さなければと思わないマスコミ人がいるとすれば、正直そういうマスコミ人にはマスコミに居る意味などないとすら思う。

 著者は広告代理店を経て外資系コンサルファームでメディア、エンターテイメント企業の変革に従事した経験を持つと略歴にあるが、書かれていることは見事なまでに戦略コンサルのロジック展開そのものである。マスコミ内部から見れば、ややことを単純化しすぎているように見えるかもしれないが、ロジックが単純化されているからといって、そこから導き出された結論に正面から論理的に反論できるマスコミ人など1人もいないだろう。そのくらい、単純明快な論理と快刀乱麻を断つがごとくの筆致が、最初から最後まで冴え渡っている。また、ものすごくロジカルに述べているにもかかわらず、「おっとどっこい」「ゼンゼン違う」「クリエイションしない」など、妙に崩れたギョーカイっぽい言い回しや多くの喩えも用い、努めて平易に書かれているので、非常に理解が楽である。

 とりわけ、1章「マスメディアの本質は『注目=アテンション』の卸売業」から3章「マスメディアの競合としてのインターネットメディア分析」までの議論は、ネットのことをかなりよく知っているマスコミ関係者でもきちんと整理して理解されていない論点が見事なまでにまとめられているので、このわずか20ページあまりのパートだけでも一読する価値はある。端的に言ってしまえば、著者は「インターネットは(特にGoogleは)マスメディアと直接競合しているわけではない」ということを明確に示している。今のマスメディアが「アテンションの奪い合い」という“仕入れ”の局面で競合しているのは、インターネットではなく、実は自らが生み出してきた「過去のコンテンツ」である。競合としての「過去」を浮上させるきっかけになった1つはもちろんインターネットかもしれないが、おそらくインターネットがなかったとしても、デジタル化技術が遅かれ早かれこうした事態を引き起こしていただろうと考えれば、マスメディアの地盤沈下はもはやインターネットを潰せば済むような問題ではないと言える。問題は、いかに自分の生み出した「過去」と戦うのか、あるいは戦い方を(収益モデルを)変えるのかということに尽きるわけだ。

 このあと、本書はテレビ、ラジオ、新聞、雑誌の順に、4つのマスメディアがどのようにインターネットと戦うべきか、その行く末にはどのような将来像があり得るのか、これまた明快な論理で明らかにしていく。この本がただのマスコミ評論本と大きく異なるのは、その分析から導出された「このメディアが生き残るためにはこうするのが論理的必然」というところまで、具体的にきっちり踏み込んで書かれている点だ。著者は「ここに書かれていることが正解とは限らない」と述べつつも、ここまで論理的に明快に喝破されては、「そうじゃないでしょ」とはたぶん誰も言えないと思う。少なくとも、僕も彼の導いた結論以外の妥当な方向性を思いつかない。

 ちなみに、著者は決して「マスコミ不要論」に立脚しているわけではない。むしろ逆で、11章「なぜ、それでもマスメディアは必要なのか」において、「マスコミは健全な民主主義を維持するための最後の防波堤」「社会の中で知の拠って立つ基盤」と庇い、これに対して「ネットはアノミー」「ネットは寄生虫」とまで断言している。マスコミ人にとってある意味ジャーナリズム産業の最後の拠り所となる「健全な民主主義の担い手」という言葉を、堂々と主張してあるというだけでもきちんと読む必要のある本だろう。もっともその防波堤、基盤が今まさに突き崩されようとしている状況に対してどうすべきかということについては、恐らく最近のマスコミが取ろうとしている方向とはまったく逆を本書は指し示しているわけだが。

 今後、マスメディアがこの著者の導く論理的帰結を冷静に受け止められるかどうかが、マスメディアの拠って立つレゾンデートルである「健全な民主主義」を本当に守れるかどうかの試金石となるだろう。つまり、今後の日本のマスメディアの将来を占う時には、極端に言えば「この本の言うとおりになっていればセーフ、違う方向に進んでいたらアウト」と判断しても良いだろうと思う。その意味では、本書は数年後には偉大な「預言書」になっているかもしれない。

 また、マスコミ関係者以外も読んでおくべき内容として、12章「コンテンツ論」と13章「マーケッターに求められるパラダイムシフト」という稿がある。特に、コンテンツ論に書かれている「今後は、メディアの枠組みそのものを作っていく、そしてその枠組みが市場の文脈の中でどのような利用のされ方をするか素早くセンス(察知)して、枠組みとコンテンツの両方を進化させていく、といった能力が、クリエイターには求められるようになる」といった言葉は、その1つ1つの言葉の意味をしっかりとかみしめて受け止める必要があるだろう。

 また、この本のすごいところとして、各章や節の終わりに、さまざまな文献からの警句の引用がされているのだが、この引用元の幅がまたすごい。「徒然草」から「ガンダム」まで、古今東西あらゆる名言隻句が引き合いに出されている。本書を読み終わったときには、こういうさりげない部分にも、著者の言う「デジタル化時代」の恐ろしさの片鱗のようなものを感じることができるかもしれない。

 新書なのでさっと読めるが、それだけにスルメイカのように何度も何度も1語1句をかみしめて読み込んでおきたい、すごい本である。個人的には、織田信長がゼロサムゲームを抜け出した日本人の代表例として紹介されているのにびっくりした。なるほど、千利休が秀吉に殺されたのは、彼が当時の日本の事実上の「日銀総裁」だったからなわけですね(この意味の分からない人は本書24ページをどうぞ)。というわけで、最近読んだ本の中では高橋洋一の『さらば財務省!』と並ぶ、超お勧めの1冊。

Author: "R30" Tags: "書籍・雑誌"
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Date: Sunday, 06 Jan 2008 15:46

グラミンフォンという奇跡 「つながり」から始まるグローバル経済の大転換 久しぶりのブログ更新に、特に意味はない。強いて言うなら、昨今の状況について、少し思うことをそれとなく語ってみたりみなかったりというところか。私のmixiに来ていない方で、まだこちらのブログを読んでいる人もいるかもしれないと思ったりもしたので。

 といっても、別に大上段に「今年の抱負」とかそういうのをブログで語るつもりもない。その代わり、年末年始に読んだ本の中で、特に印象深かった本の紹介をしておこうと思う。『グラミンフォンという奇跡 「つながり」から始まるグローバル経済の大転換』という、昨年7月に出版された本である。

 出版されてから半年近くも経った時に、essaさんのところで知ったのだが、実はリアル知人たちがこの書籍の発刊に関わっていたことをそのときに初めて知った。そのとき「絶対読む」と備忘録に書いてあったものをようやく読んだ次第。著者、訳者の方々の意図とは異なる読み方だったかもしれないが、読んでいろいろと思うことがあった。

 大学時代の専攻が開発経済学だったこともあり、グラミンバンクやら適正技術やらといった話は、私のかつての知的関心のど真ん中の話題でもある。「かつての」と言ったのには、もちろん含意がある。essaさんやyohmeiさんのレビューは、どちらかというと開発経済学的な側面からストレートにこの本に共感を示している。それはそれでまったくその通りなのだが、私自身はそうしたことは理論的には既に大学時代の勉強で見聞きしていたので、特段新しい話という気はしなかった(ソフト化経済センターの町田氏は「途上国の経済開発はこの数年で様変わりした」とブログに書いているが、こうしたフレーム自体はグラミン銀行が登場した80年代後半以降の新成長論や持続可能性を論じる開発経済学の潮流の中では既に議論されていたことで、それが現実化しただけと思える)。

 この本を読みながら私が考えていたこと、それはもっと別のことだった。というか、私自身の過去の視野の狭さに対する痛烈な反省である。2000年頃、フィンランドまでNokiaをはじめとした世界最先端のIT産業の取材に行く機会があったのだが、そのときに「ITで世界最先端」と言われていた北欧諸国の企業(と国)の人々が、どんなビジネスをしようとしていたのかをちゃんと整理して理解せずにいたことを、この本を読むまでまったく気がつかずに今までいた。グラミンフォンが立ち上がるまでの経緯の中で、ノルウェーやスウェーデンの通信企業、コンサル会社、開発局(日本のJBICとかJICAみたいな組織)がちゃんと全部(人脈とか土地勘・ノウハウとか信用補完とかで)クラスター化していることが大きな役割を果たしていることがかいま見える。つまりNokia、Ericssonといった企業は、単独で世界規模の通信企業になれたわけではなく、国ぐるみで(欧米以外も含めた)世界市場にアクセスするための仕組みがあってそうなったのである。少なくともグラミンフォンやアフリカ諸国への通信ビジネスの展開に関する限り、米国は主人公のイクバル・カディーアのビジネス・キャリアであったり創業にあたってのシードマネー的なものは多少提供してはいるものの、途上国の通信市場におけるヒトモノカネの結合の中では(当初は)それほど重要な役割を果たしていたわけではない。つまり、新しい「世界市場」のピラミッドが米国を頂点としていたわけでは、必ずしもないということだ。

 まったく新しい市場、新しいビジネスのピラミッドは、多くの人々にとっては文字通りピラミッドの頂上の1つの石にしか見えない。砂の中に埋まっている巨大な石の構造物は、その存在に気づく能力のあるごく一部の人にしか見えないのである。見えない人があまりにも多く、見える人が1人しかいないところでは、その1人がどんなに巨大なピラミッドの存在に気づいていたとしてもそれは現実化しない。つまり新市場のピラミッドを早く見つけてその発見になるべく多くの人を巻き込み、ヒトモノカネをすばやく集めて動き出すためには、こぢんまりとした産業クラスターの中に、ピラミッドが見えるだけの前提となる知識のある人が集まっており、かつその中に「あいつの話ならまあ信じるに値するだろう」というような信頼関係のある人間のネットワークをきちんと構築しておく必要がある。

 もちろん、地中の構造物が見えたからといってそれを誰でも掘り起こせるわけではない。掘り起こすためには見えないピラミッドに対する信用を作り上げ、莫大な投資資金を集めてくる才覚と、そのスキーム組み立てのあらゆる段階で直面する「鶏か卵か」の議論をねじ伏せ、物事を前に進める力量が求められる。しかしこれらも個人でできる話ではなく、やはりそれをチームワークで成し遂げられる信頼関係のネットワークが必要だ。

 ネット業界でよく「世界展開できるサービスが日本から出てこないのはなぜか」という議論があるが、別に難しいことでも何でもないシンプルな話で、ウェブサービスに限らず「世界(日本以外)にいるお客のキモチが分からない人(たち)に世界向けの製品・サービスなんて作れるわけがない」のであって、それ以上でもそれ以下でもない。アフリカの人に使ってもらえるウェブサービスを作りたいなら、アフリカの消費者の生活事情に精通した人を連れてきて一緒にウェブサービスを作り、マーケティングする以外にないわけである。で、日本にそんな人がいるかというと、少なくともすぐに見つかるところ、声をかけに行ける範囲には誰もいないよねということで、単純に日本という社会のナショナリティに関する多様性の低さが「世界展開できるウェブサービスの出てこない最大の理由」だと私は思う(ネットでアフリカに詳しい人を探し出して尋ねれば良いという人もいるかもしれないが、ネット上で伝わる情報の量にはやはり限界がある)。

 この説明の「ウェブサービス」の部分は、恐らくそれ以外のあらゆる産業や製品・サービスの名前に置き換えてみるべきことだろう。自分の所属してる産業、作ってる製品・サービスはどうか?と考えてみると良い。そこでは世界規模のビジネスは意識されているのか?世界を視野に入れたピラミッドが掘り起こせるだけの力量、才覚のある人たちが信頼できるメンバーでチームを組めるほどの人数いる業界なのか?たぶん、これからの日本で世界に伍していくためには、この疑問を自問できるかどうか、それに判断基準を置いたアクションが起こせるかどうかが大事なのだろう。物理的にシリコンバレーに移住するだけがそうしたプロセスに必要な条件とは思わない。この本が示すように、米国にいたって世界という巨大なピラミッドが見えないことはいくらでもあるからだ。だが、周りに“日本”という国のレベルに収まらない、十分に大きな“ピラミッド”の見える人たちがある程度の数だけいないことは、日本の中で「世界標準」と「国内標準」にあらゆるものが二極化していくこれからの時代、大きなハンディになる可能性がある。元旦から始まった日経新聞の連載「YEN漂流」もまさにそうした未来を示すものだろう。私自身も今年からはそうしたことを意識して過ごさなければと思った次第。

 まあそんなわけで、今年もよろしくお願いします。

Author: "R30" Tags: "書籍・雑誌"
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Date: Thursday, 17 May 2007 15:36

 磯崎さんのところで見た新語にちょっと興味を引かれたので、つらつらと思うことを。

 ポリバレントな人材(isologue)

 「Polyvalent」って本来は化学用語らしいけど、日本語にすると要するに「多能工」ってことでしょ。英語にすると新しい話みたいに聞こえるけど、日本の製造業はもう数十年以上前から多能工の持つ価値を見抜いていて、その生産性の高さを引き出すための方法すら編み出している。そう、いつものアレです、「トヨタ生産方式」です。

 こういう、耳新しいカタカナ語で語るとすぐに皆さん飛びつくんだけど、なんだかなあという感じ。いちいち英語で言われて気づく前に、日本オリジナルの知恵をもっとよく勉強して、大事にすればいいのに。そんなに難しいことじゃないと思うんだけどな。

 ものづくりの世界での「多能工」の意味には、まず作業負荷の平準化がある。つまり、ある工程の作業ができる人というのがライン内に複数いることで、その工程の作業の負荷が一時的に増えてもそれを前後の工程の人が分担できる、だから生産ライン全体で見るとボトルネックが生じにくい、というのがそれだ。

 ただ、多能工のメリットはそれだけではなくて、複数の工程をこなせるため仕事に飽きが来ない、複数工程にまたがる「カイゼン」の提案ができる、そして熟練すれば単工程の作業をこなせる人よりも多くの人から尊敬を集められる、といったこともある。言うなれば作業者のモチベーションそのものを高めることができまっせ、というのが多能工化の本質的な価値である、とトヨタ生産方式の中では言われているわけだ。

 これだけ明確に謳われているにもかかわらず、ものづくりの世界から一歩出ると、多能工化を嫌う人が世の中本当に多いのね。特にその傾向が顕著なのが、磯崎さんのブログでも書かれているような「士業」の世界、それから学問の世界の人たち。いわゆる「専門家ホワイトカラー」系の世界の住人である。この方々は1つの領域に深く深くはまってる人にこそ最高の価値があると思っていて、複数の領域を股にかけて何の専門家なのかよく分からないぐらいいろいろな領域に足を突っ込んでいる人を、ことさらに卑下するさげすむ傾向がある。

 「専門性」という名の下に隠蔽されたこれら「専門家」の視野狭窄、柔軟性のなさ、そしてもっとぶっちゃけて言うと「使えなさ」みたいなものは、最近とみに深刻だと思う場面が増えているのだけど、当の専門家の間にはそういう世間の評価に対する反省というのがまったくないというのがさらに深刻ですな。要するに、知的退廃というヤツでしょうか。率直に言って頭が悪いんですな、特定の「専門領域」しか持たない人たちというのは。あるいは現実の社会を知らないというか。

 個人的には、その元凶となっているのが「大学」だと思うわけで。アカデミズムの世界ほど、特定分野の専門性を掲げずにいろんな領域を横断的に考える人間の評価を、不当に貶めているところもないと思う。確かに純粋科学の領域などでは、特定の専門領域に深く深く入っていく、生涯をかけて取り組むことで達成できる何かもあるとは思いますよ。でも実際の世の中で役に立てようと思ったら、複数領域の専門性を併せ持っている「多能工」な人のほうがずっと高い価値を生み出せる。だったら、純粋学問と社会の間の「実務系学問」の領域ぐらい、多能工専門家の評価をもっと高くする仕組みとか、あってもいいんじゃないかと思うのだが。

 こと「士業」の世界では、純粋学問の人たちの人材に対する価値観がそのまま実務的専門家の評価にも滲み出してしまうものだから、社会的ニーズの高まりそっちのけで融通の利かない視野狭窄な専門バカが大量に生まれるという弊害が生まれているわけだ。そして、既存のアカデミズムに依存しなければ自分の目で人材が有能かどうかの判断すら付かない人たちが、その価値観をさらに再生産するという悪循環が延々続く。まったくもって、どうしようもない。

 まあ、既存のアカデミズムはそういうところは永久に変わらないかも知れないだろうけど、せめて実務家の側からでもそういう価値観に異を唱えることはしていくべきじゃなかろうかと。多能工の本質的価値というものを、もう少しホワイトカラーの人たちも考え直して、人材評価に反映させるとかした方がよろしいんじゃないでしょうか。なんてことを思ったですよ。そんな話はどうでもいいですかそうですか。では。

Author: "R30" Tags: "日記・コラム・つぶやき"
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Date: Thursday, 19 Apr 2007 07:32

超地域密着マーケティングのススメ 4月1日に発売されていたのを見て、気になってすぐに入手して読んだのだが、その後インフルエンザに罹って書評を書いている時間が取れなかった。Amazonでも売れているようだが、良い本だと思う。とても28歳の人が書いたとは思えない。

 何より良いのは、難しい理論をごちゃごちゃと書いたりしていないことだ。ところどころ、ジェフリー・ムーアの「キャズム」の概念とか、web2.0とロングテールがどうとか書いてあったりするが、そんなことは一言も書かなくても良かったとすら思う。

 商売の中で最も大事なことは心だ、時間だ、そして地域という場所なのだという、当たり前のことをしっかりと、実際の話を元に書いてある。タイトルには「マーケティング」とあるが、マーケティングの本ではない。これはれっきとした、そして最近まれに見る素晴らしい「営業」についての本である。

 読後の最初の印象は、「素晴らしい、やられた」というものだった。実は自分もこういう内容の本をかつて企画したことがあった。世の中の人が「マーケティング」と騒ぐ、そのレベルの話のなんと空しいことか、そしてそうした小賢しい企ての向こう側で、顧客とじかに魂を触れ合わせながら生きる「地域に根ざした」小売業の人たちの生き様の、なんと美しく心を揺さぶるものであるか。そういうことを、何とか伝えてみたいと思った。でも思いは果たせなかった。たぶん自分には、そのことが頭で分かってはいても、他人に伝えるだけの重みのある言葉が、足りなかったのだろう。

 本書の著者の平岡氏は、前書きで次のように書いている。

何度お客様めぐりをやっても、手配りで粗品を配っても、あなたがその人を知らず、その人があなたを知らない限りは、ただの通行人です。物語においても、登場人物は役の名前が付いて、初めて覚えてもらえるのです。

あなたが、お客様の「人生の登場人物」になること。

 これこそが、地域に根ざした商売のエッセンスなのである。そう言っても、実感として分からない人には絶対分からない話なのだけれど。

 この本を読んで、昔取材した九州のある小さな家電専門店のグループのことをずっと思い出していた。その家電専門店のグループの経営者は、どこにでもある昔ながらの家電店、大手の量販店が近くに店を出して客をごっそり奪われ、積み上げてきたものをすべて失って赤字を垂れ流し、「もう店を畳もうか」と悩む店主に対して、こう語りかけるという。「あんたが店を畳むのは、あんたの勝手だ。だが、あんたから商品を買っていたお客さんは、これから誰のところに相談しに行けばいいのか?お客さんを本当に大切に思っているのなら、売った責任を最後まで取らなければ」。たいていの人は、これで店を畳むのを思いとどまるという話だった。

 田舎というのは、そういう場所だ。「あなたは、ここに住むすべての人たちに対して、責任がある。ここに住むすべての人たちも、あなたに対して責任がある」、何もかもがそういう関係で成り立っている世界である。店は商売のためにあるというよりも、その「責任」の維持のために存在しているといった方が実感がある。

 平岡氏の「マーケティング」、あるいは営業論というのは、地域に根付くとはどういうことか、それを生業として生きていくとはどういうことか、ということを、ある意味とてもわかりやすく、彼自身の遍歴と経験に即してまとめたものである。読めばそんな突拍子もないことが書いてあるわけではない。だが、この「当たり前」を、すっかり忘れてしまった地域のお店というのも、結構多いのではないだろうか。

 この10年あまり、「田舎くさい人付き合いは嫌だ」、「ベタベタするのは若い人にはもう好まれない」などと言いながら、多くの人がこのような人間関係構築の技法をおざなりにするようになった。しかし、人は年を取れば孤独になる。したがって、日本にはますます孤独な人が増える。そうした時代の流れに乗じて、田舎くさい人付き合いを装って人を騙す詐欺師がますます跋扈するのを止められないのを見ても、その部分が何か新しいものによって埋められたわけではなく、ただポッカリと空いた「心の穴」となって広がっただけなのではないかと思わざるを得ない。ある意味、地域に根差す商人の「怠慢」の結果とも言える。

 この本は、地域密着の商売とはどのようなものかを語った本でもあると同時に、こうして空いた心の穴を埋める生き方をするための心掛けも教えてくれる、希有な本である。もっとも、かつては両者は同じものの表と裏だったに過ぎない。この穴を埋めることのできる人に対する、今後の世の中の潜在的ニーズは莫大なものがあると思う。あらゆるビジネスにおいてこの穴を埋める技法を知って、ビジネスの仕掛けの中に組み込むことが求められてくるのではないだろうか。

 「マーケティング」という言葉の入ったタイトルで、この本の価値を矮小化してしまう人が出るかもしれないのは、実にもったいないことだ。うまく言えないが、これは「人が他人の人生の物語に、モノではなく生きた登場人物として登場するにはどうすれば良いか」について余すところなくそのハウツーを語った、他に類を見ない希有な本である。

 企業に所属しているか、それとも独立自営しているかに関係なく、ビジネスというものを自分の人生にとって「カネを稼ぐための手段」以上の大切な何かだと少しでも思っている人であれば、今のうちにこの本を買って読み、自分の仕事にどう生かせるか、あれこれ思いを巡らせておいたほうが良いだろう。そういう、ビジネスに「魂の触れ合い」を求める人のための、素晴らしい1冊である。

Author: "R30" Tags: "書籍・雑誌"
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Date: Monday, 09 Apr 2007 05:41

 選挙期間が終わるまでは怖くて(自分も含めて)誰も言い出せなかったのかもしれないが、今回の都知事選で何が面白かったといって、それは「選挙」というものを素材にした、見事な国際的メディア・アートが登場したことであった。そう、「外山恒一の政見放送」である。ここには、ニコニコ動画にアップされたものを転載した、最もサウンド・エフェクトの秀逸なものを1つ貼っておいた。ほかにも、YouTubeで「外山恒一」と検索すれば、さまざまなエフェクトを施された秀逸な動画が無数に視聴できる。

 「メディア・アート」の定義については、このブログの2004年11月の記事でも取り上げているし、あるいは東京芸大の藤幡氏のインタビューを読んでもらえれば良い。狭い意味では、「我々を取り巻く新しいメディアやテクノロジーと、我々自身との関わりを意識化しようとする表現の試み」とでも定義すれば良いのではないか。海外ではそこに「社会批判的メッセージが込められていること」という条件が付くようだが、その定義をすべて適用しても、これは完璧な「メディア・アート」であるとしか言いようがない。

 外山恒一氏のこの政見放送を「政見放送」として聴た人は、おそらくドン引きしただろうが(ニコニコ動画のコメントにも「はぁ?だったら選挙に出るなよ」といったものが多かったが)、そもそも数十万円から数百万円の供託金さえ支払えば、誰でも複数のテレビメディアを5分間好きなように乗っ取れ、選挙公報の紙面の(朝日新聞の広告単価に換算すれば)1000万円以上の広告価値のあるスペースを利用することができるという仕組みそのものは、今に始まったことではない。

 東京都知事選挙は、夜間人口のみならず首都圏の人口を含めれば4000万人以上の人口に対する宣伝が可能で、しかも全国的にも最も注目を集める選挙でもあるため、立候補することによる広告効果は、うまくやれば300万円の供託金をはるかに上回るものが得られる。実際、他の立候補者の顔ぶれを見ても分かるとおり、この制度は当然のようにタレントや個人事業家の売名行為、広告目的に使われており、それは民主主義の代償として仕方ないことであるとはいえ、醜悪なものである。

 その点、外山恒一はこの制度を個人の商業目的には使わなかった。のみならず、彼はこの仕組みを利用して、(本人は意図せざる結果だったらしいが)古いメディアと新しいメディアの両方と社会の関わりとを、強烈な批判の俎上に晒してみせたのである。これをメディア・アートと言わず、なんと言おうか。

 彼がこの政見放送を「ネタ」として行ったことは、ちょっと考えればすぐ分かることだ。演説の中で「多数派」「少数派」といった、70年代新左翼運動のカリカチュアライズを強く意識したようなレッテル貼りの単語を多用していることでも気づくだろうし、「もし私が当選したら、奴らはビビる!私も、ビビる」と、最後に「種明かし」していることだけでもネタだと分かるだろう。また、右に貼り付けたように、実際に外山恒一に電凸した人のルポルタージュ動画がアップされているので、それを見れば政見放送でのしゃべり方が普段の外山氏本人とはまったく別の「演技」であることも分かる。

 この演説を聞いて「こんな危険思想の奴を放置しておいていいのか!」とか憤慨した人は、釣られましたねお疲れ様とお声掛けするしかないわけなのだが、面白かったのはこの動画がちゃっかり中国語韓国語の字幕までつけられてYouTubeにアップされていたことである。既に消されてしまっているようだが、中国語版を作ってアップした人の紹介コメントが、日本語と中国語の両方で書かれていて、日本語では「私には投票権がないが、こうした問題意識を持っている人がいるということを知って嬉しい。選挙後にぜひ彼とともに革命を起こしたい」とあり、中国語では「こんなに笑える滑稽な政見放送が、日本では公共の電波で放映された」とあったのを見て、この人はジョークの分かる人なのだと思って嬉しかった(韓国語版のコメント欄は残念ながらジョークの通じない人によって荒れているようだが)。この動画が、大衆社会の政治やそれを批判する人々自体をカリカチュアライズしたアートをきちんと許容できる文化レベルがあるかどうかのリトマス試験紙にもなっているところが、興味深い。

 そして、国内ではご存じの通り、政見放送という「著作権の生じない著作物」を、ネット上の無料動画共有サイトにアップすることの政治的是非が話題になった。一介の前衛アーティストが、豪快に権力を「釣る」のに成功した瞬間である。これこそ、日本に稀と言われた「社会批判のメッセージが込められた」メディアアートの、金字塔的成果というべきではないだろうか。

 今回の外山氏のパフォーマンスを、私は「政治的に(ぎりぎり)正しい政見放送(The Politically Barely Correct Election Broadcast)」と名付けても良いのではないかと思っている。外山氏には、こうしたラジカルなメディアアートに対する理解者が、東京都民だけで1万5000人もいたということを支えに、ぜひ国際的なメディアアーティストとして末永く活動を続けてほしいと期待するものである。

Author: "R30" Tags: "文化・芸術"
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Date: Thursday, 29 Mar 2007 06:16

勝ち馬に乗る! やりたいことより稼げること この『勝ち馬に乗る!』という本、米国での発刊以来15年目にして邦訳を企画された三ツ松新氏から2月の終わり頃に献本をいただいて拝読したのだが、ものすごく印象に残る本であるにもかかわらず、「このブログの読者の皆さんにもぜひ読んでもらいたい」などという薄っぺらい推薦の言葉が、どうしても書けない。この猛烈にひっかかる抵抗感は何だろうと、この1ヶ月ほど考え続けていた。

 それで、さっきふっとその理由が分かった。なのでそれをまず書いておきたい。「自分の可能性を信じている奴、あるいは今いる会社で努力すれば報われるなどと考えている社畜は、絶対読むな。入手厳禁」。左記にあてはまる人は、読まずに今すぐブラウザの右上の×印ボタンを押すこと。まちがっても以下の文章は読まないでください。

 著者はご存じ、あの名著「売れるもマーケ 当たるもマーケ マーケティング22の法則」のアル・ライズとジャック・トラウト。何しろ、「リンドバーグがなぜあんなに有名になって、著書が売れて大金持ちになったか、リンドバーグの数日後に大西洋を横断した奴が名前さえ知られていないのはなぜか。リンドバーグが一番乗りだったからだ。一番乗りになれないなら、何をやっても無意味」などというみもふたもない話を書かせれば、世界中でこいつらの右に出る者はいないとされるコンビである。本書もさぞかし、みもふたもない話のオンパレードなのだろうと思ったら、やっぱりそうだった。

売れるもマーケ 当たるもマーケ ―マーケティング22の法則 ライズ&トラウトらしく、最初から最後まで、自分の能力ではなく他人の能力や発明にただ乗りして大儲けした奴らの話が、これでもかとてんこ盛り。15年前に出た書籍であり、取り上げられている事例はマクドナルド、マイクロソフト、ロータスなどやや古いネタが多いが、まあよくもこれだけ書いたものである。成功したベンチャー企業の経営者は、たいてい自分の能力が秀でていたことを強調して自分を伝説化したがるから、こういう書籍に例として取り上げられるのはさぞかし噴飯モノだっただろう。

 それはともかく、本書に書かれていることは事実であるというだけでなく、すべて真実である。真実だがしかし、あまりにみもふたもなさすぎる。

 マーケティングの分野であれば、ある程度の「みもふたもなさ」を分かっていなければ仕事ができないのは事実だし、多くの場面で自分の売りたいものよりもお客に買ってもらえるものを優先しなければビジネスにならないのは現実なのだから、そういう「みもふたもない」話を語るコンサルの本を読むことは大切だろう。しかし、その「みもふたもなさ」を、自分自身の人生にまで徹底して適用しようと思うだろうか?まあ、そういう人もいるのだろうな。カネ儲けのためには良心だって悪魔に売り飛ばさないと、だしね。

 最初から最後まで「カネを儲けた奴こそが成功者」という拝金主義が怒濤のように溢れかえっているのは、米国のビジネス本の愛嬌と思ってやり過ごすにしても、「成功するためにあなたがこれまで必要と考えてきた真っ当な努力はすべてムダである」というメッセージをこれだけぶつけられて、読後に多少なりとも不快感を感じない人というのは、よほど世の中を舐めきって生きてきた人だけだろう。まして、自分磨きやら昇進競争に少なからぬ資金を投じ、一生懸命取り組んできたという真面目な人にとっては、激しい怒りと脱力感に襲われること必至だ。

 しかし、あえて言うなら「世の中の現実なんてこんなもんよ?」という、最もどぎつい現実を突きつけてくれる良書であるとも言える。この本を読んで怒り出す人というのは、言うなれば子どもに向かってゆとり教育のスローガンそのままに「自分の好きなことをやりなさい」と諭しながら育ててきた挙げ句、子どもが就職もできずニートや引きこもりになってしまった途端、すべてを政府のせいにするようなものである。世の理不尽を正面から見つめ、受け止めるだけの心の鍛錬が足りない。

 鍛錬が足りない人は焦って宗教やイデオロギーという麻薬を求める、とマルクスは言った。イデオロギーは不都合な現実を見えなくする。我々が深く考えもせず何となく信じている常識のなんと多くが現実を包み隠す「イデオロギー」であることか、本書でライズ&トラウトに教えてもらうと良い。この程度の現実すら直視できないで、資本主義社会を無事泳ぎわたることなど、できるわけもないのである。

 しかし、本書は世の中に溢れる「自分磨きこそ成功への近道」という宗教的イデオロギーの皮をひんむいて見せるために、「成功至上主義」という別のイデオロギーを対置してみせた。この本を読むなり「そうか、こうやって成功すればいいのか!」と、頼れる馬を探して周囲をキョロキョロ見回すような人間は、キリスト教と資本主義というイデオロギーから抜け出ようとして、新たに共産主義というイデオロギーに染まるようなものである。つまり「アホ」である。

 他人のアイデアやコネ、親戚などが最も頼れる馬なのだということぐらい、30歳を過ぎればもう気づいてなければならない程度の「世間知」だが、若い時からそれらを頼ることばかり考えて生きる人もまた誰の相手にもされないのだということも、もう1つの世間知として知っておくべきだろう。

 この本を読んで「ああ、大金持ちになるということは、まあそういうことだろうね。しかし私は、自分の能力のできる範囲でこつこつやるよ。その方が長い人生、楽しいからね」と言えるような愚鈍な奴に、私はなりたいと思う。そして、そう思えるようなマチュアな30歳以上の人に、自分の過去30年以上の中で積み重ねてきた世間知が、魅惑の共産主義イデオロギーにどれだけ立ち向かえる強さを持っているか、試すために読んでみてもらいたいと思う。その意味では最もどぎつい類の「名著」と言える。

 だが、もう一度言っておく。はっきりした自分の立ち位置を持ち、悔いなき人生を送るための世間知を積み重ねようという自覚のないまま生きてきた社畜君、がっつき君、自己啓発オタクは、この本を決して買わないでください。以上。

Author: "R30" Tags: "書籍・雑誌"
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Date: Sunday, 21 Jan 2007 01:13

 映画そのものは見てもいないわけですが、あちこちで盛り上がり始めているのでちょっと一言。例の、前田有一氏曰く「すべての男が見るべき大傑作」磯崎先生曰く「他人にどうすすめてよいのか分からない」と悶絶されるところの、あの映画でございます。

 まあ、いろいろな意味でフジテレビ亀ピーGJ、なんでしょうね。素直にそう思います。痴漢えん罪がどうこうというのでなく、司法というのがいかに不条理な世界であるかというのを、これから4年以内に「裁判員制度」が始まる前に、国民の皆さんがよく知っておいた方がよろしかろうと。 知ったからどうこうなるものでもありませんが。

 不肖私もこの前とある刑事事件で地元の警察に原告側証人として呼ばれ、調書作りにつき合わされたのですが、いやもうなんというか「職業としての司法」というのはこういうものかと絶句致しました(警察は厳密には行政ですがね)。最近は公務員に成果主義導入とか話題になっているようでございますが、警察には既に業績評価賃金が導入されているかのごとくでございます。とにかく明確で疑いを差し挟む余地のない事件を立件するのが職務ですから、そのために刑事さんってのはグレーもすべて「クロ」と断言させようと、誘導尋問しまくりなんですな。

 こちらは一応原告(被害者)の人にとって唯一の頼れる証人ということもあり、あいまいな証言をすると加害者が無罪放免になっちゃう恐れもあり、まあ多少の誘導尋問には目をつぶるしかないかと思ってもいたんですが、それにしてもこっちの話の意図や目撃内容を必死にねじ曲げて、あたかも犯罪があったのが自明であるかのようにでっち上げようとする様子が、本当に痛々しいことでございました。

 逆に考えると、自分が何かのはずみで事件に巻き込まれ、加害者の嫌疑をかけられたら、裏でこうやってものすごい勢いで周辺に誘導尋問されて罪をでっち上げられるんだろうなと思うと、とにかくああいう場にかかわりにならない生き方をするのが善良なる市民の責務でさえあると思うようになりました。

 以前にどこかで読んだ気もするのですが、満員電車の中で女性に手を捕まれて「あなた、痴漢でしょ!」とか叫ばれたら、「違う」と主張したり「出るとこ出てやろうじゃないか」とかバカなこと考えたりしないで、とにかく脊髄反射的にすぐに手を振り切って、脇目もふらずに電車を降りて(あるいは別の電車に飛び乗って)人混みに紛れて逃げるのが最上の策であるらしいですね。自分自身は痴漢したい衝動に駆られたことも痴漢したこともありませんが、万が一痴漢扱いされたら脊髄反射で脱兎の如く逃げられるように、いつも心構えはしているつもりです。

Author: "R30" Tags: "日記・コラム・つぶやき"
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Date: Saturday, 13 Jan 2007 17:53

 昨年から藤代さん@ガ島通信に誘われて参加していた情報ネットワーク法学会の分科会の1つ、「デジタル・ジャーナリズム研究会」が、先週の土曜日にとりあえず一段落した。とか言って、実は昨年5月から7月ぐらいまでの何回かと、昨年末の学会でのパネルディスカッションに出た以外はほとんど顔を出さなかった僕が言うようなセリフじゃないですね、「とりあえず」とか(笑)。お前が何やったんだよ、と怒鳴られそう。

 で、最終回のテーマは「ジャーナリズムと経営」ということだったらしい(らしい、というのは、所用で参加が1時間弱遅れて、前半の議論にほとんどついていけなかったから)。実はどうやら僕に司会みたいな役割が期待されていたらしいのだけど、遅れて行ってみたら既に別の人が司会役をやらされていて、僕は最後までまったく何の役にも立たなかった。まったくもって使えねえ奴でございます。

 最初の回で「ジャーナリズムの定義」というテーマで「ネットの言論はフラットかそうじゃないか」で議論が堂々巡りしているのを見て「なんて不毛な研究会だ」と呆れていたにしては、昨年末の研究大会でのパネルディスカッションはずいぶんと面白かった。そして最終回の議論も、まあいろいろな意味で興味深いものではあった。

 プレゼンターはとあるネット媒体のニュース欄担当の方と、戦略ファームのコンサルタントの方の2人で、僕は後者のプレゼンの最中に会場にたどり着いたのだが、新聞を中心としたオールドメディア関係者の方々はそのプレゼン内容をどう理解して良いのやら分からず、無反応状態(笑)。ま、そりゃそうだよな。メディア業界って、自社の財務諸表すら見たことない人たちの集まりですからね。「コストに占める変動費比率が~」とか「保有するコンテンツのマネタイズが~」とか言われても、宇宙人と会話するぐらい訳分かりませんって言われるのが関の山(笑)。

 コンサル氏は要するに「既存のマスメディアはファイナンス面から見る限り、決して将来が暗いわけではない」というのと「良いコンテンツを持っているがそれをうまくマネタイズできてないという意味では、オールドメディアとYouTube、MySpaceなどのweb2.0企業は同じポジションにある」ということを言いたかったようなのだけど、聞いている人たちからは「で、それって僕たちにどういう意味があんの?」的なきょとんとした雰囲気しか感じ取れなかったのが、はたから見ていて面白かった。

 その後の議論は、2人のプレゼンターのプレゼンを華麗にスルーしつつ、最近勃興してきているローカル系のネットメディアのビジネスモデルなどの話になっていったのだけど、「あそこはあーしている」「こっちはこーしている」みたいな情報交換の合間に、突然(これまた僕よりもさらに遅れてやってきた)藤代さんが、がーっと割って入ってしゃべりまくる、みたいな不思議な議事進行で、結局何がどうまとまったのかさっぱり分からずじまい。飛び交っていた事例の情報はそれなりに面白かったけど、最後まで何一つ意味のあるフレームワークも提示されなければ結論も出ないという、オールドメディア関係者と会話すると必ず陥る、絵に描いたような典型的な結末を迎えて研究会はおひらきとなった。年明け早々、まったくめでたい会でございました。

 昨年12月の学会研究大会のパネルも含め、議事録らしきものが今後まとまって出るそうなので、興味のある方は気長にそちらを待っていただくとして、ここでは僕個人の感想めいたものをちょっと述べておきたい。

 前々から思っていたことなんだが、最近改めてつくづく感じるのは、オールドメディア業界の人ってほとんどが「真面目な職人さん」なんだよね。ネット界隈の巷では「マスゴミ」なんぞと呼ばれ蔑まれているが、報道業務に「世間を自分の意のままに動かしてやろう」なんていう悪意を持って携わってる人間なんて、それこそナベツネぐらいのレベルのところにしかいなくて、ほとんどの記者は「これが社会のためになっている」と思いこんで日々体を壊す寸前まで働きづめになりながら、目の前に降ってくる事件を追い、ニュースをさばき、取材をこなしているのが実態なんだよね。だから、あまり知られてないけど、マスコミって40代半ばぐらいでからだボロボロになって突然死しちゃう人とか、20~30代でうつ病になって失踪したり自殺したり引き篭もっちゃったりする人とか、普通の企業に比べてめちゃくちゃ多いわけで。

 で、幸いにもそういう過酷な環境でドロップアウトしなかった人が生き残って上に上り詰めて「経営者」になるわけなんだけど、上り詰める人もはっきり言ってただの「真面目な職人さん」の一種に過ぎないのだね。たまたま多少「真面目」度がちょびっと低かったりとか、ローテーションの運に恵まれたりとかいう事情があって、過労死しなくて済んだだけのことで、本質的には一兵卒の「真面目な職人」と何ら違う人種じゃない。

 こういう悪意もかけらも持たない、心から「メディア」という仕事を天職だとか思いこんでいる善意の固まりの真面目な「職人」が、メディアという事業のマネジメントをやることの弊害というのが、実は甚だ大きい。なぜかというと、真面目な職人というのはその真面目さゆえに、やるべきこととそうでないこととを冷徹に選び取り、残りをばっさり捨てるということができないからだ。

 「あなたは真面目で誠実なんです、そしてそれこそがあなたの最大の欠点なのです」なんて言われたら、人間誰しも自分が人格否定されたとしか思わないだろうから、誰もそういうことは当の本人に面と向かって言ったりしないのだけど、実際メディアビジネスに関わっている人の最大の致命的な欠点とは、彼らが「真面目で誠実」であり、まさにそれ故にビジネスをしていくうえでの冷徹かつ大胆な取捨選択の判断が下せないことなのだ。

 DJ研最終回のプレゼンターの某コンサル氏によれば、「実際問題としてオールドメディアの方がネットメディアより従業員の年俸も圧倒的に高く、仕事自体公共性が高いと言われてもいるはずなのに、オールドメディアの従業員のモチベーションはネットメディアより全然低い」。このパラドクスの原因は、結局オールドメディアの人々というのが上から下まで誰も「選び、捨てる」という経営的判断ができないことにある、と僕は思う。

 かつては僕は「メディア業界がダメなのはメディア企業の経営トップが無能ゆえである」と思っていたが、最近は少し違うと思うようになった。なぜかというと、優れた企業というのは経営トップだけでなく、役員会からミドル、現場まであらゆるレベルの階層で、従業員が「経営」的な視点からの判断を下そうとするのを重んじる組織文化があるからだ。

 例えば、トヨタといえばトヨタ生産方式(TPS)やトヨタウェイなどが有名だが、世の中の多くの人がTPSやトヨタウェイを「現場が一定のルールに従うだけで自動的に生産性が上がっていく」ような管理システムや行動規範だと思っているのではないか。でもそれは、全然違う。トヨタという会社は、役員から現場の新人社員に至るまで、組織内のあらゆるレベル、あらゆる職種の人間に「経営視点からの判断」を求める組織風土がある。そして、それこそがTPSやトヨタウェイの本質だ。トヨタの社員は、1人1人が毎日毎日「我々は会社全体、事業全体、SCM全体から見てこの仕事をやるべきか、やるべきでないか」ということを考えて、取捨選択をし続けているのである。

 オールドメディアの業界の人で、会社の経営方針や業界の行く末に関して不満や不安、愚痴を漏らしたり、経営トップやミドルマネジメントをくさしたりする人はいくらでもいるけれど、自分が今やっている仕事が会社の、事業の、あるいは業界全体から見てどうして必要なのか、あるべき姿とは何なのか、そこに近づくためにはやるべきなのかやるべきでないか、やるべきとしたらどのようにした方が良いのか、といったことをきちんと筋道立てて議論できる人に、残念ながらこれまでお目にかかったことがない。そういう議論ができる人は、たいてい30代半ばぐらいまででそこからいなくなる。メディアの世界に居続ける人というのは、誰もが自分の仕事に対する情熱のつぎ込み方がハンパなものではないのだけれど、一方で上から下まで、組織全体や経営的な視点から見たあるべき姿の議論というのが、極端に苦手だし、そういうことが考えられるようになることが必要だとも、誰も思ってない。

 でもそのことが、実はまだまだいくらでも「何とかしようがある」はずのオールドメディア業界を、さらに悪い方向に追い込んでいっているのだと、僕は感じている。こちらのブログでも書かれているように、成長著しいネットメディア業界だって誰もが同じようにおいしい思いをしているわけではなく、容赦ない淘汰が進んでいるのである。なのに、ネット業界のような激烈な競争もなく、ぬるい馴れ合いとさまざまな規制・保護で守られているオールドメディア業界の方がネット業界よりも士気が下がっているのだとしたら、それは他の誰のせいでもなく業界の中の人たち自身のせいでしかない。メディア業界の人たちは、自嘲気味に業界の行く末を嘆いたり経営トップの悪口を言ったりする前に、自分の意識を変えるべく他業界や他社、他人にもっと謙虚に学び、自分の業界や仕事を見る視点を上げるべきだと思う。

 というわけで、デジタル・ジャーナリズム研究会も春からまた2期目が始動するのかどうか知らないけれど、できればそういう「マネジメント」の切り口から議論を再開してほしいなあと思ったりしたのだった。出席率の異様に悪い不良会員なので、こんなとこであまり偉そうな口を叩くもんでもないと思いますが。

 あと、個人的にはネットにも今のメディアにも、何となく飽きた感が強まってきたので、今年から少し活動の領域と方向を変えて行こうかと思っております。このブログはたまーに釣り堀、ブラックジョーク、チラシの裏、またはアサマシの場としてちょろちょろ更新はしようと思いますが、僕の日々のアイデアやら動静を知りたいという方は、僕とリアルで知り合いになったうえでmixiに来られることをお勧めします。ていうか、今後は知り合いでもない方々に自分の論考をタダでは提供しないことに決めたので、あしからず(また気が変わるかもしれませんが)。リアルでおつき合いのある皆様は、今年もどうぞよろしくお願いします。

Author: "R30" Tags: "メディアとネット"
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Date: Friday, 29 Dec 2006 11:06

 英FT誌の安倍政権批判記事が結構面白くて、gooニュースの中でもアクセスを集めているみたいだ。

 「破壊者」を無視する余裕など日本にはない―フィナンシャル・タイムズ(gooニュース)

 英国系経済メディア独特の回りくどいレトリックとロジックが駆使されているので、ネット上の特亜批判的な分かりやすい罵倒記事を読み慣れた人には何を批判しているのかよく分からないだろうが、まとめると以下のような感じかな。

 「ライブドア堀江がつるし上げにあったのは、彼が攻撃しようとした日本の政治・経済を牛耳る保守的なエスタブリッシュメントたちのせいだ。この連中は一見進歩的知識人の皮をかぶって安倍政権のブレーンとなっていたりもするが、実際のところ彼らの主張は『世界トップの日の丸製造業をもっと保護せよ、外資の侵入から日本を守れ』ということだけだ。要するにお仲間クラブの馴れ合いを守りたいだけなのである。かつて小泉政権で大胆な改革に踏み出しかけた日本の政治も、経済政策に定まった知見のない安倍首相になってから元の黙阿弥になってしまった。中国・インドにのされようとしている既存の大企業や製造業を保護するのではなく、網の目のように張り巡らされた規制の撤廃によって芽を潰され続けてきているベンチャー企業、またはサービス業にもっと大胆な可能性を与えて、第三次産業の生産性を上げなければ、日本に将来などない」
 細かい部分についてはさておき、FTアジア担当コラムニストのグイ・ド・ジョンキエール氏によるこの主張自体にはまったく同意だ。安倍政権の経済政策について「財政赤字を削減し、時期尚早な金利引き上げで景気が失速しませんようにと祈る――─安倍氏の経済政策とは結局、これくらいしかなさそうだ。」と喝破するに至っては、お見事というほかない。

 まさに日本のややこしいところは、歴代自民党政権にも密接に関わるメインストリームにいる「進歩的(リベラル)」とされる知識人・経済人の多くが、実は言葉の本当の意味での「リベラル」ではない――米国のリベラリストのように、あらゆる人種・立場の人々に対する可能性を損なわないように配慮する役割を重んじるのではなく、日本の同じメインストリームにいる人たち(企業、団体、個人)が立場を失わないように配慮する役割も、同時に担っているというところにある。

 日本の場合、リベラリストはリベラリストというだけで社会的に尊敬され、その地位を維持できるというわけではなく、「お仲間クラブ」の誰かのメンツを潰すようなことをした瞬間に、その「お仲間クラブ」から追放されてしまうのである。したがって日本でエスタブリッシュメントであろうとすれば、米国の上流階級の人たちと渡り合える「リベラリスト」であると同時に、必然的に仲間をかばう「保守」たらざるを得ないのだ。財界・学界だけでなく、これこそが「リベラル」と「保守」が同居する自民党政治の本質でもある。

 小泉前首相は、その意味で言えば実は徹底的に自民党お仲間クラブの「アウトサイダー」でもあった。だからこそあれだけ豪快な改革をやってのけられたわけだが、安倍氏は残念ながらそうではないということが早々に明らかになってしまった。さて、日本の人たちは一見リベラルでその実極めて保守なお仲間クラブの人たちが再び凝集して密室で談合する政治への逆戻りをよしとするのかしないのか、というところが2007年の見どころだろう。

 さて、その話はともかくとして、ちょっと気になったのはジョンキエール氏の論考の後半の段の「製造業よりサービス産業の改革とその担い手としての『破壊者』、つまり堀江のようなイノベーターが必要だ」というくだりだ。ロジックそのものには全面的に賛成するものの、例示や理解が間違っている。そこのところを補足しておきたい。

 ジョンキエール氏はサービス産業の労働生産性が低いことの証明として「銀行の窓口」を挙げているが、これは必ずしも正鵠を射ていない。日本の労働生産性が先進七カ国中最低となっているのは、確かに全産業中労働投入量の58%を占めるサービス産業(第三次産業)の労働生産性が全産業より16%も低いせいだが、金融サービス業自体の労働生産性は、国内平均値よりも高い。やや古いデータだが、2001年の産業構造審議会のこちらのデータ(PDF)の、7ページ左下のグラフを見れば分かる。金融業は、全産業の平均以上のところにいる。

 これに対し、労働生産性が著しく低いのは、「飲食」「商業」「生活支援サービス」の3つだ。日本の労働生産性統計の足を思いっきり引っ張っているのは、このうち第三次産業全体の労働投入量(労働者数×平均勤務時間)の34.7%と、3分の1以上を占める「商業(卸売業、小売業)」である(ちなみに、飲食業の労働投入量は7.0%、生活支援サービス(介護、保育)のそれは3%弱)。ちなみに、僕の手元にあるデータによれば、小売業の労働生産性は国内全産業平均の52%、卸売業のそれは59%しかない。

 さらに細かく見ていけば、小売業の中でもっとも労働投入量の多いサブセクター、それは家族経営商店(全小売業の55%)である(こちらのデータ(PDF)の9ページ上の図参照)。僕の手元にあるデータによれば、家族経営商店の労働生産性は、ただでさえ低い国内の小売業の労働生産性平均に比べて、さらに40%も低い。要するに、地方のシャッター通りの商店街にある、商売をやってるのかやってないのかも分からないような無数のお店が、日本の第三次産業の労働生産性を思いっきり引き下げてるってこった。詳しくはこのブログの過去エントリ「郊外出店規制じゃなくて、中心市街地商店廃業強化が必要じゃね?」をどうぞ。

 で、誰がこんなとんでもない構造を作り出してるのかってことも、そのエントリに書いた。ありていに言っちゃえば、流通分野の中小企業にありとあらゆる補助金を与え、固定資産税を軽減し、開店休業状態でも店を閉めないほうが税制上有利になる仕組みを作ってきた政府ですよ。ジョンキエール氏は労働生産性の著しく低い日本のサービス産業の事例に、都銀の窓口などではなく、「どこの田舎でもいい、JRの駅を降り立ってすぐのところに、生きているのか死んでいるのかも分からないような静まりかえった小さな商店の連なるモールがある。日本政府は何十年もの間、莫大な税金を投入して、この競争力のまったくない個人商店をひたすら生きながらえさせ続けているのだ」とでも書けば良かった。都内の銀行は、ここで言う「サービス産業の低生産性」の事例としては、いささか適切ではなかった。

 まあ、それはともかくとしても、「日本の問題は、有望な新興企業が少ないことではない。有望な新興企業が、なかなか大企業にまで成長できないのが、問題なのだ」といった指摘は、正しすぎるぐらい正しいので、この1件をもってジョンキエール氏の論旨を否定するものではない。どこの誰とは言わないが、「サービス業=金融業」とか勝手に読み替えて外資ハゲタカ批判してる人とかは、大いに反省した方が良いよ。

 というか、これだけストレートに日本経済の問題点をきちんと指摘できるエコノミストが、日本国内に皆無ということのほうが、はるかに大きな問題だと思うのだけど。やっぱりアレですね、日本人エコノミストたるもの、サービス産業がすでに国内の総労働投入量の3分の2を占め、年々増え続けていると分かっていても、偉大なる我らが経団連様の前では「やっぱり日本はものづくり、製造業立国ですよねはっはっは」とか言わないといけないのですよ。

 もしそこでとちくるって「いやだってサービス産業のほうがずっと深刻な問題じゃないですか、医療とか教育とか、もっとガンガンに規制緩和すべきです」などと正論レポートを書いた瞬間に、それこそ政財界の「お仲間クラブ」からパージされてしまうという、この息の詰まるような閉鎖的言論空間そのもののほうがずっと大きな問題かもしれませんね。ではこのへんで。読者の皆様も良いお年をお迎えください。

追記:文中で「手元にあるデータ」と記したものの類似データがネット上に公開されてるのが見つかったので、リンクを張っておく。2004年の経産省のもので、データ(11ページの「サービス業における労働生産性」のグラフ)は1999年のもの。

Author: "R30" Tags: "経済・政治・国際"
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Date: Monday, 25 Dec 2006 06:53

 ♪You better watch out, You better not cry, better not pout, I'm telling why. The 収税係 is coming to home♪

 というクリスマスらしい陽気な音楽にのって(嘘)、我が家に警察ならぬ市役所から未納住民税の取り立て係がやってきた。追徴金の額は1億1600万円…じゃなく、3000円である。

 彼女(たぶん60歳ぐらいのおばさん)は、2カ月ほど前にも1度我が家に来られたのだが、僕が「どういう理由で追加の税金を納めなきゃいけないのかちっとも分からないので、その理由を説明してください」って言ったら、ほぼ即答で「今分からないので、調べてきます」と去っていったのである。そして待つこと2カ月。彼女はきっと、あれから東京・霞ヶ関の財務省内部に決死の覚悟で潜入し、2カ月の内偵を終えて僕の質問に答える物証をつかんできたに違いない。

 このたった3000円の税金の未納は、実は昨年の秋ぐらいから自宅に「未払住民税のお知らせ」という封書がたびたび届くようになっていたのだが、「理由不明」とみなして放置していたものだった。何度か督促状が来たのち、今年の秋についに封書ではなく収税の担当者が直接おみえあそばしたというわけだ。

 で、僕が再び「どうして追加の税金を納めなければならないのか理由を教えてほしい」と尋ねると、彼女はおもむろに僕の出した2年前の確定申告書を出して、「雑所得」欄に僕が書いたアルバイト原稿の原稿料のところを指さして言った。「ここの分の住民税です」

 でもその原稿料は、所得税の源泉徴収はすでに払われているはずだったので、僕は「これまで普通に住民税も払ってきているんですけど、どうしてその雑所得に対する源泉徴収以外にさらに住民税を払わなきゃいけないんですか?」と質問した。すると彼女は「分からない。市役所の収税課に聞いてみてください」。いや、その、2つめの質問でもうアウトですか?(笑)この2カ月何して来たんだか。

 またかよと思いつつ、ここでまた追い返すと、このくだらない3000円の件が3年越しになってしまう可能性が高く、ここにいる誰も得をしないなと思ったので、玄関口に彼女を待たせたまま、電話を取ってきて彼女の指し示した「収税課」の番号に電話をかけた。「すいません。雑所得に対する住民税が払われてないって今、家に来ている収税係の人に言われてるんですけど、既に源泉徴収で払ってるんじゃないんですか?源泉徴収って、国税だけに100%入るんですか?」と聞くと、電話口の収税課職員がもごもご言った後に「分かりませんので、ちょっとお待ちください。のちほどかけ直します」。…収税課の人間が、自分が今取り立てようとしている税金の根拠も知らんのかいな。

 で、しばらく待っていたら電話がかかってきて、はきはきした女性の声で「雑所得に対するものではなく、給与所得とすべて合算したうえで、既にいただいている特別徴収額との差額をご請求させていただいております。源泉徴収に住民税は含まれておりませんので」。やっと納得し、目の前の年輩女性に3000円払った。ちなみに、僕の税に関する疑問にいつも一番明快に答えてくれる公務員って、たいてい若い女性担当者だったりする。なぜなんだ(笑)

 前々から思ってることだが、税金集めてる連中って、本当に全然自分たちの集めてるカネのロジックを知らずにやっている。まあ、税の体系は複雑怪奇だから全部頭に入れられないのかも知れないが、ロジックを知らずにかけずり回ることの積み重ねがどんだけの無駄につながるのかということの意識がないのが、まさに官の官たる所以。だいたいそのカネはなぜきちんと確定申告なり源泉徴収なりの、通常プロセスの中で集められなかったのか。それをきちんと分析して今後のプロセス改善にフィードバックしなければ、たった3000円のために職員がわざわざうちに2回も訪問するなんてことになる。徴税コストのほうが徴税額よりずっと高くつくじゃねえか。

 たとえ当該案件の課税のロジックが出てきたとしても、職員によって言ってるロジックが違うことがままあるので、同じ税務署内の違う職員に確認するだけで、数万円とか数十万円も課税額が変わったりもする(これも経験済み)。今回はそういうことはなかったが、税金を払うときはロジックをよくよく確認して、自分で納得できるまで税務署内のあちこちの職員に尋ねて回った方が良い。これ、確定申告のジョーシキである。

 それにしても、そもそも源泉徴収に住民税が含まれないことぐらい、どうして地方自治体で収税業務している職員が即答できないのか?税金と国民年金の徴収窓口を統一、という話が出てるが、そんなややこしい話以前にそもそも地方税と国税の収税業務を税務署か地方自治体のどちらかに集約したらどうなのか。めんどくさくてしょうがない。

 まったく、クリスマス当日にとんだ来訪者だった。ま、今年は住宅ローン減税でがっぽり年末調整が戻ってきたから、いいけどさ。収税係の皆さんも、こちらのレシピ等もご参考にローストビーフなどご用意しつつ、せいぜい良いクリスマスをお過ごしください。

Author: "R30" Tags: "経済・政治・国際"
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Date: Wednesday, 13 Dec 2006 02:50

ヒューマン2.0 web新時代の働き方(かもしれない) 最初に断っておく。先日出版記念パーティーにお誘いを受けた。久しぶりにお話しがしたい知り合いからのお誘いでもあったので、忘年会も兼ねてと思い、ひょいひょいと顔を出した。上はMSKKの古川さんから、下は僕のような舌禍ブロガーまで、ものすごいレンジの人が集まっていた。参加者が20~30代の男性ギークだらけだった梅田さんの『ウェブ進化論』の出版記念オフ会と比べて、渡辺さんのお客さんは幅が広いなあと感じた。

 で、本を受け取って渡辺さんにお祝いのごあいさつをしに行ったら、サンタ帽子をかぶったちょうかわいい渡辺千賀さんに「ここに来たからには5冊以上買うこと!」と笑顔で脅迫された。出版記念パーティーの席上で、サンタコスプレした著者が列席者に向かって「献本もらったんだからブログで紹介し、さらに1人5冊ずつ買え」とか脅すのを見たのは初めてだ。サンタにあるまじき所業。シリコンバレーのサンタっちゃ、えずか(恐ろしい)ばいね!というわけで、全部ネタばらしした上でアフィリエイト貼っておく。ディス・イズ・クチコミ2.0。

 で、本の中身なのだが、すでに「働き方」というコンテンツの本丸については、千賀さんの三菱商事時代の1年先輩かつ親友でもある岡島悦子センセイが「ヒューマン2.0的な働き方の波は日本にもやってくるか?」という命題について、余すところなく論じていらっしゃるので、僕が口を差し挟む余地は特にないかな、と思う。

 ただ、岡島さんが述べているのは、リアルなヒューマン2.0的ワークスタイル、つまり「フリーランス」あるいは「(非熟練ではなくプロフェッショナルワーカーへの)アウトソース」という事象についてであるが、僕はもう少し広い意味でこの本を座右の書にする人が多くても良いかな、と思っている。それは、帯で孫泰蔵氏も書いているように、「会社に依存しない」というメンタリティを持つ、あるいは持ちたいと思うすべての人々が身につけるべきマインドセットが、ここに極めて分かりやすく面白く描かれているからだ。

 この本を読むと、たとえば日本の昨今の教育における議論やそこで持ち出されるテーゼが、労働力の流動化する社会において本来持つべきマインドセットからいかにあさっての方向を向いたものであるかが、ものすごくよく分かる。本書の第8章「ヒューマン2.0のルール」では、「仕事」「転職」「楽にやる」「リスクを楽しむ」「サバイバルする」という5つの項目に分けて14のルールが紹介されているが、その中に「理論上の『本当の自分』を探さない」というルールがある。要するに、万物流転、情報混沌のシリコンバレーにおいては、「自分は本当はこういう人間だから、こういう仕事をすべきだ」といった発想で仕事を探してはいけない、むしろ小さく週末のバイトみたいな形でこっそりやってみたり、小さなプロジェクトベースで始めてみて、自分にできるのか、合うのか確かめていくべきだ、というのが渡辺さんの言い分だ。

 聞けば当たり前のことのように思えるが、こうした「パラレルキャリア」「セカンドキャリア」の発想を持って人生を送ろうと考える人が、日本では意外なほど少ない。僕よりも上の世代は「天職」という概念、僕より下の世代は「あなたが一番好きなこと、やりたいことをやりなさい、仕事にしなさい」と教え込まれ続けてきたことが、職業選択やワークスタイルの極度の硬直化を招いている。会社が自分のことを必要としていないことを自分自身分かりすぎるほど分かっていながらそれでも会社にしがみついたり、「自分が本当にやりたいと思ってきた仕事」を高望みしすぎて目の前の労働機会と自分の人生に絶望し、無気力になってしまうといった不幸な人たちが数多く生まれてしまうのも、これまでの公的教育において教えられてきた誤ったワークライフ概念の結果のように、僕には思えるのだ。

 また、その次に書かれているルール、「時にはあきらめる」ことも、実際に見ているとできない人が多い。ここでの「あきらめる」は、無気力になるという意味ではなく、「戦略的撤退」のことである。自分の能力を超えた問題が目の前にある場合、耐え難く嫌な人間が職場にいてその人事権を自分の力ではどうにもできない場合は、「職場を変える」つまり自主的にその会社を去ることが大事だ、と渡辺さんは書く。これまた当たり前の話なのだが、実際には常日頃から刷り込まれてきた「とにかくがんばれ、為せば成る」という自意識の脅迫観念にさいなまれて、どうにもできないことが分かっている状況に突撃を繰り返し、燃え尽きてしまう優秀な人が後を絶たない。

 そういう、本当は蒙るべきでないはずの不幸を蒙っている多くの日本のビジネスパーソンに、1人でも多くこの本を読んでもらいたいと思う。前半だけ読むと、海賊みたいな超絶コンピュータ・ギークの跋扈するシリコンバレーの攻撃的な風土が鼻につきすぎるきらいがある。「別に俺ギークでもシリコンバレー信奉者でもないんだよ」という人は、前半はあえて読まなくても良い。ぜひとも読んでほしいのは後半だ。

 文系な方には、ぜひ6章の「人生とお金」あたりから読み始め、日本の生活環境のぬるさと幸せさを実感した後で、7章「シリコンバレーで誕生する4つの働き方」で未来の日本のナレッジワーカーの姿と自分のキャリアのあり方に思いを馳せ、8章「ヒューマン2.0のルール」でそれを実現するためのマインドセットと現在の自分の意識ギャップを測ってみる、というのがオススメだ。会社で日々上司と経営トップの悪口を同僚と愚痴っている人は、自分が人生の貴重な時間そのものを無駄にしていることに気がつくだろう。そこに気がつけば、それこそがあなたにとって「ヒューマン2.0」の第1歩。明日から、パラレルキャリアでもチャンクワーカーでも何でもいい、来るべき将来のワークスタイルをイメージして、自分をそれに合わせるための前向きな行動を起こせる。

 こういう言い方をすると新興宗教みたいでアレだが、この本に書かれている渡辺千賀式マインドセットをきちんと自分に言い聞かせ、実践できるようになれば、必ず「ラッキーになり」「ハッピーを最大化し」、冒険で自由な楽しい人生を送れるようになると思う。実際、僕自身も今の会社に来てから、このマインドセットと同じことを教えられたなあと、思い当たるところはたくさんある。シリコンバレーに行かなくても、「シリコンバレー的精神の自由」は手に入れられるものだと、僕は信じている。この本は、そういう「働くことの夢と楽しさ」を、落語のような軽快でユーモアにあふれた文体で教えてくれる本である。

Author: "R30" Tags: "書籍・雑誌"
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Date: Friday, 08 Dec 2006 13:48

 なーにが「過剰」だよ。インターネットをバカにするのもいい加減にしろ。ふざけんな。僕だったらこんな仕事、7億円ぽっちじゃあ到底引き受けねーぞ。無茶言うなよ。

 過剰広報予算:小泉メルマガ、官邸HPに年間7億円超(MSN毎日インタラクティブ)

 毎週一国の総理とその閣僚に旬の話題のコラムを書かせ、誰が読んでも分かりやすいように書き直しつつ、文章の中に含まれている文言に関係する省庁すべてに筋を通すという気が遠くなるような調整作業を毎週1回のメルマガに間に合うように超スピードでこなし、しかも一方で購読者200万人に毎週同じ曜日の決まった時間に遅滞なく配信する。これだけのサーバのキャパシティを確保し、高品質のコンテンツを作り出し続けることに一体どれほどのコストがかかるか、その手間と苦労と技術水準を想像することすらできない党の党首さんに、「実は私、宮崎アニメのファンなんです」とか眠たいことをぬかして欲しくないわけですよ。もうね、豆腐の角でヘディング100回ぐらいして死んでくださいと。

 面白いことをちょこっとしゃべるだけならそりゃ小泉首相1人でもできただろうけど、あれだけ豊富な話題を、しかも旬なネタを逃さず漏らさず、きちんと拾い集めて回りながらしかも読み手にとって分かりやすく面白いコラムを数本、毎週発信するなんて、相当にプロフェッショナルな組織でなければ到底できないこと。読者がせいぜい数千数万の、誰の了解を取らなくても責任も発生しない言いたい放題の放言を党の方針に沿って書き殴り、配信数もせいぜい数千数万と、そこらのメルマガASPで十分配信できちゃう泡沫政党のメルマガやHPとは訳が違うのだよ。

 それとも、インターネットの情報発信なんてタダでもできるじゃねえかとか言いたいのかね。じゃあ、逆に紙媒体で全国200万の読者に無料で毎週2~3本の面白いコラムを送り届けるコストがどれぐらいかかるのかと、比べてみればいいよ。年間7億どころか、50億だってきかねえぞ。それを7億でやっちゃってるコストパフォーマンスを、何だと思ってるんだ。社民党は、プロフェッショナルなIT屋さんやコンテンツ屋さんの労働コストをどこまで削れば気が済むんですかね。関係者全員年収150万円ぐらいの奴隷労働者にでもなれってことですか。すんばらしい。格差社会に涙がちょちょぎれまっせ。

 そもそもこれまで、日本の政治で支持者にしか理解できないイデオロギー用語じゃなく、誰でも分かる平易な言葉で政治家や政府がステートメントを発信したのって、小泉メルマガが初めてでしょ。しかもインターネットを使いこなしている政党すらほとんど存在しなかった時代に。社民党がそこまでネットを使いこなして、ウェブの活用で先頭走ってきたから言うってんならいいけどさ。実際にはサイトデザイン1つとっても、どう見てもそうじゃないわけでしょ。むしろ社民党のこの分野の遅れっぷりは目を覆うばかり。

 社民党のウェブサイトなんて、未だに首相官邸サイトの足許にも及ばないしょぼさじゃん。トップページは可変幅でリーフは固定幅とか、バナー広告みたいなロゴ脇Flashはクリックしても微動だにしないわ、過去記事一覧へのリンクさえないわ、検索窓はGoogleそのまんまだわ(笑)。デザインポリシーもIT戦略もへったくれもないページ作ってる政党から「首相官邸がウェブサイトに金かけるとはけしからん」なんぞ、言われたかぁないわけですよ。せめて民主党のウェブサイト並みにFlashでトップナビゲーション作ったうえで「おまえら7億もかけてトップページに動的ナビゲーションさえ置けないわけ?どんなヘボ業者使ってんだよバーカ」とか言うなら分かるけどね。

 技術と戦略とコストパフォーマンスで先頭を走っている政党が「政府はもっと安くできることに金を使いすぎだ」とか言うなら分かるけどねえ。最近のはただ単に「広報とかITの戦略活用には一銭も使うな」って言ってるだけ。もうね、社民党は日本のITとネット業界関係者にケンカ売ってるとしか思えない。で、その社民党の質問に「過剰予算」とか見出し付けるマスコミもマスコミですよ。おまいら、コンテンツで飯食ってるんじゃないんかと。いったいどれだけの給料の記者を首相官邸と永田町に張り付けてんのかと。まあ、日本のマスコミにIT活用とかコンテンツ戦略がどうとか、今さら求めてもしょうがないしねえ。あーあ。どうでもいいや。しょーもないことに怒りをたたきつけちゃったかな。反省。

Author: "R30" Tags: "メディアとネット"
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Date: Tuesday, 28 Nov 2006 01:58

 僕だって「連載してけろ」とか言われたら嫌だけれどもさ。いや、別にこれだけじゃなくて、その「醜悪な男性誌」のほうでも、どっちも。そういうキャラじゃないんでね。

 「品のない女性週刊誌を作ろう!」と呼びかける馬鹿っていいなー(切込隊長BLOG)

 以前にあるマーケティングリサーチの会社が「10年後の顧客ニーズ」という調査をして、もっともニーズが高そうと出たのが女性向け風俗サービスという結果だったという話からしても、こういう情報媒体には猛烈なニーズがありそげ。

 ただ、隊長の言うとおり、男性版と違って表紙にこれ見よがしな艶めかしい女性の写真を配するといったかたちでは媒体を訴求できないのがちょっと考えれば丸分かりなわけで、ニーズはあるけれどいったいどういう体裁を取って売るべきかというところでみんな悩んでいるところだと思うのだよね。いや、別に僕が企画書いた訳じゃないけど。

 そういう意味では、確かに「L25」は大変な可能性のある媒体だと思った。これ、「R25」以上に大化けするんじゃない?もしかすると。すでにフリーペーパーだけあって、率直な欲望に忠実なその手のコンテンツが多々混じっている気配ではあるが、将来的にはもっと下品なコンテンツと広告で大いに賑わいそうな予感。

 某食品メーカーの出した金キラキンの下品なデザインのボトル入り飲料も、聞くと発売前の社内では「ブランドイメージを損なう」と反対の大合唱だったようだが、いかにもなパッケージデザインで目を引いて売れてしまえばもうこっちのもの。今じゃ驚異的な売り上げで株価も上がり、大騒ぎになっているらしい。まあ、あれは男性向けだけどね。女性向けのそういう商品は、きっとさらに難しいだろう。絶妙なパッケージデザインを思いついただけでノーベル賞ものですよ。

 上品で誰もが無難と認める商品なんざ、いくら言葉巧みに売ろうとしたって利益なんか出やしない。それよりも身も蓋もない下品な商品を、消費者の劣情感を刺激しないようにうまく提供できる企業にはすごい利益が転がってくるというのは、非常に普遍的な法則のような気がするよ。隊長に向かって脳内妄想を延々としゃべりまくるその編集者氏にも、ぜひとも頑張ってほしいものである。こっちに近寄らないでねって感じだけど。

Author: "R30" Tags: "ビジネス"
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Date: Friday, 10 Nov 2006 17:19

 日本というのは、なんでこういう一般泡沫株主に後ろ足で砂かけるようなディールが平気でまかり通るのかね。

 「牛角」など展開のレックス、MBOで株式を非公開に(読売新聞 via gooニュース)

 株価の推移を見てみると、今年1月の55万円を最高値に、じりじりと下がってきてこの8月の中間決算発表とともに30万円台から一気に半額の15万円まで下がった。そして現在20万円にようやく戻したと思ったところで、過去1ヶ月(!)の株価平均に14%のプレミアムを乗せた23万円というTOB価格を発表。

 別に僕はレックスの一般泡沫株主でも何でもないのだが、このTOB価格はいくら何でも一般株主をバカにしすぎ。こんなディール、果たして許されるのか?来週以降の市場での一波乱が予想されます。てか、波乱してくれ。この世に正義はないのか、正義は。

 西山社長は責任とってかとらずしてか会長に退くとのことだが、持ち株SPC(特別目的会社)の3割の株主にはなるらしい。ampm買って成城石井買って、ここまで必死で多角化してきたのに、結局この株価じゃ意味がないよと言いたいんだろう。でもそれってコングロマリット・ディスカウントですから!残念!(死語)

 まあ、いくら牛角やampmの業績が苦しいとはいえ、成城石井とかは好調なわけだし、西山社長が低株価に業を煮やすのもわからんではない。だが、同じくMBOで上場廃止したすかいらーくが、数年にわたって低迷していた株価がじりじり上げてきていたときにMBOを発表し、しかも過去3年の株価よりも高い水準のTOB価格設定だったのに対して、レックスはわずか3ヶ月前の中間決算発表までは30万円台だったものを、決算で特損出して株価爆下げさせたところでTOBというのは…もし僕が同社の株主だったら、到底同意しかねる。あるいは、誠に遺憾の限り。もう少し直截的な表現でもって申し上げるとすると、まさに外道まさに詐欺。あり得ないあり得ない。

 TOB価格の基準が直近1ヶ月の平均ってどういう意味ですか。意味もなくデイトレーダーによって株価が大幅変動するような流動性の少ない株ならいざしらず、流動性だってちゃんとあるし、根拠のない株価じゃないでしょう。まして、わずか1年前に50万円超で買った株主には半減の損させて…っていうのは、常識的にちょっと許せないものがある。NTT株売り出しとか、楽天の上場以来の暴挙じゃないですかね。せめてTOB価格は8月の中間決算発表前の30万円にしておけば良かったのに。これってもしかして、株主代表訴訟起こせば勝てるんじゃないのか?ひょっとしてひょっとすると。

 というわけで、誰か証取法と会社法に詳しい方、分析をよろしくお願いします。<(_"_)>

Author: "R30" Tags: "ビジネス"
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Date: Wednesday, 25 Oct 2006 18:12

 相変わらず派手にやってくれますな。新料金プランなどにコメントしてほしいような人もいるようだが、そっちには個人的に全然興味ないので、大西さんのとこでもお読みいただくとして、僕のほうはあえて本筋を外したコメントをしておこうかと。

 ソフトバンクの奇策 広告で「新聞号外」(Livedoor News)

 これには正直、たいしたものだなと思った。「号外」という、新聞メディアの粋とも言える発行形態を一企業が自分でビッグイベントのプロモーション手段に使い、新聞側もそれを許容して輪転機を貸してしまう?というこの事態。しかも記者会見からここまで、メッセージの組み立てやその露出させ方と、消費者を店に引きずってくるまでのプロセスとが完全に計算されている。このキャンペーン仕切った人は、広告屋冥利に尽きるでしょう。教科書の事例にしたいぐらい、見事なものだ。

 ただ、新聞業界的に言うと、広告営業的には「よくやった」なのかも知れないけれど、たぶんオールドタイプな新聞人からは「号外っていう特権的な媒体のカタチと名前を、よりによってあんな話の広告に使わせるのか。お前らにプライドってものはないのか」というため息が聞こえてきそう。(古き良き新聞人の「号外」に対するプライドというのは、それはそれはすごいものがあるのですよ)

 SBの取ったこのキャンペーンは、メディア的には2つの点で大きな意味があると思った。

 1つは、昨日発表した(それまでは社外どころか社内でも極秘だった)内容を、すぐさま版におこして印刷し、今日全国の街頭で配布するというこのプロモーション戦略のスピードを実際に可能にできる仕組みを持つマス媒体と言えば、新聞しかないということ。つまり、SBの広告がマス媒体としての新聞の大きな可能性を、世間に改めて認識させたとも言える。

 反面このキャンペーンは、はからずも「新聞の価値はその中身ではなく“情報を半日以内に物理的な手段で全国にばらまき、人々が受容する”という、その媒体の形状」にあることも明らかにしたように思える。ぶっちゃけた話、これが成功したってことは「新聞の号外に“記事”が載ってなくても、それには広告的に十分価値がある」ということを意味しているわけだから。

 今回のキャンペーンを考えたのがSB広報か代理店のどっちかは分からないが、まあ既存の代理店や新聞社の広告局からこういう発想が出てくるとはとても思えないので、恐らくSB広報に相当な切れ者がいたということなんでしょう。まあ、日本の新聞各社も、これをきっかけにして、もっと広告で工夫して稼ぐ努力をすればいいかもね。今回示されたように、媒体としての価値はまだまだいろいろなところにたっぷり残っているわけだし。

 久しぶりのエントリは結局全然SBの話じゃないけど、そんなところがオチということでひとつ。

Author: "R30" Tags: "メディアとネット"
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Date: Wednesday, 27 Sep 2006 05:16

 Google Mapの日本の情報が更新された、という記事をCNETで見たので、どれどれと思いながらちょっとのぞきに。今回は地図データのアップデートだったらしいが、衛星からの写真データも7月に更新されていたらしい。

 そこで、前からその中身を見てみたくてしょうがなかった施設の上空に。そう、それは「東京ディズニーリゾート」。頭の黒いネズミの統べる王国。おお、中の施設から、駐車場の線1本1本に至るまではっきり見えるぜ。と思いながら、ふらふらと空中散歩していたら、面白いものを見てしまった。ディズニーシーのど真ん中に、まっすぐ1本の道路が走っているのである。

 メディテレーニアン・ハーバーの裏の水上パレード用ボート繋留所の横、キャラバン・カルーセルの裏側から、ミステリアスアイランドの山脈とマーメイドラグーンの間を通って、ポートディスカバリーのエレクトリック・レールウェイ駅裏側まで、ポートディスカバリー地域向けのロジスティックス用自動車道路が貫いている。ディズニーシーには3回ぐらい入ったことがあるが、こんな道路があるなんてまったく気がつかなかった。

 上空からは堂々とした道路が見えるのに、アトラクションのどこから見てもこの道路が見えない、というか存在自体にまったく気がつかないほど巧妙に隠されていることに、改めて驚いた。 たぶん、設計段階であらゆる角度からのランドスケープを計算して、ロジ関連施設は一切見えないように工夫を凝らしているのだ。この緻密な施設設計能力自体が、オリエンタルランドの最大の企業ノウハウなんだろうね。

 ちなみに、Yahoo!でも地図情報の投稿サイトがスタートしていて、こちらにOLCの社内関係者とおぼしき人が施設の名称や機能、周辺エリアの建築予定の建物などについて細かいデータを投稿している。上記のロジスティックス道路の始まっているところは、「ロジスティックビル」という注釈がついているので、この道路がレストランの食材や物販用の商品のロジ道路であることは間違いなさそう。

 大学生の頃に、「ディズニーランドに観覧車が存在しないのは、消費者に魔法の迷宮をさまよう楽しさを与え、その世界を俯瞰するパースペクティヴを彼らに与えないため」という論文を書いたりしたこともあったんだけど、これを見るとディズニーリゾートは消費者に上空から見られることを拒否している施設だったんだなあと、改めて思う。

 ただ、不思議なのは、舞浜エリアに上空からの視線をものすごく意識している施設がたった1つだけあること。いったいこれって、何のためにこんなことしているんだろうか?誰かその秘密を知っていたら教えてください。

Author: "R30" Tags: "日記・コラム・つぶやき"
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Date: Saturday, 16 Sep 2006 08:46

 タイトルがややミスリーディングな気もするが、まとめてみるとなかなか示唆深い。

インタビュー:渡辺聡氏「メディアはどう変わるか(5)――メディアの適正規模とは」(FACTA Online)

 情報の流れが双方向になった瞬間、サービスはスケールするけれども、狭義の「メディア」はスケールしないということをmixiは示している。メディアをスケールさせるためには、少なくとも一次的な発信者側と受け手のレスポンスとに非対称性を持たせることが必要。

 とはいえ、あからさまな情報非対称のサービス、つまり旧来型マスメディアは、それこそ井戸端会議のネタもとの地位でもゲットしない限り、サービスとしてのネットワーク外部性が働かないため、そもそもスケールしなくなってしまう。

 ネットサービスが黒字化するラインというのは、意外に普遍的でUU20万人がボーダーである。つまりそこまでは対称性を上げていかなければならないわけで、それと情報の流れの質をどう維持するかという問題とは、バランスを取るのが非常に難しい。

 限りなく下辺の層まで取り込もうというのなら、徹底して完全な対称性を実現すればいいわけだが、実際にそこまでいくとメディアとしてのプレミアム性というか、そのメディアが表象する読者集団のプレステージ、つまり広告媒体としてのブランド価値はゼロになる。トラフィックが発生はしているのでノンブランドの広告まで含めれば収益を発生させることはできるが、認知広告だけでサービスのランニングコストを大幅に上回る収益を上げようとするのは、もはや困難だろう。少なくとも、これまでのマスメディアが享受してきたようなべらぼうな超過利潤は、望むべくもない。

 したがって、サービスのスケラビリティ、つまり情報の対称性と、サービスの品質、つまり情報の非対称性のバランスの設計が、今後のネット上のメディアビジネスのKSFってことになる。とは言いつつ、この構図もあくまでテキストに限定した話だし、動画の爆発的普及とか、電子ペーパーの技術革新など、どこか1つのレイヤーを揺さぶるマクロ状況の変化が何か1つ起こった瞬間に、もろくも吹き飛んでしまうことになるのだろうけど。

 なーんてことは、もう分かってる人にはとうの昔に分かってるし、分からない人にはこの程度の説明では永久に分からないのでどうでもいいや。続きはmixiで。

Author: "R30" Tags: "メディアとネット"
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Date: Monday, 11 Sep 2006 03:18

 昨夜、10分1000円の散髪屋に行ったらもう閉店時間だというので、しかたなく近くの普通のフルサービス4000円の散髪屋に。そこはあんちゃんがおしゃべりでしかも僕とは割とフィーリングの合わないタイプなのであまり行きたくなかったのだが、背に腹は代えられない。

 で、のぞいてみると日曜日の夜なのに奇跡的に空いていた。で、40分ほどそのあんちゃんとおつき合いすることになったわけだが、あんちゃんは相変わらずこっちの気持ちをまったく読まず、心理的な間合いを詰めようという努力の気配も見せず、僕をシートに座らせて髪を切り始めた瞬間からいきなりセールストーク全開ですよ。

 「お客さん、結構頭の皮が日焼けしてますよね。頭皮の脂を落とさないと、髪がなくなりますよ。うち、10月まで皮脂を落とす特別マッサージ、1回2000円を1500円でやるキャンペーンやってるんですけど、いかがですか?」

 お兄さん、せめてもうちょっと禿の話を切り出す時には素振りだけでいいからデリカシーを見せようよ。いきなりそこまで突っ込んで話しかけられて「お、そうかい、俺の頭皮そんなに禿げそうかい。じゃあその特別マッサージとやら、いっちょやってくんな」なんていうキップのいいお客さん、いないと思うんですけど。いるんですかね。いたら申し訳ない。自分にデリカシーがないくせに他人にはそういうの要求するタイプなんですよ僕って。

 にしても、もうちょっと説得力のある勧誘というのはできないものか。一応これでもうちの血筋、誰一人として禿のいない家系なわけですよ。親父も爺さんも、お袋の親戚も男性はみんなフサフサ。だから自分も全然禿げる気がしない。そういう人に向かって「お前、頭皮が日焼けして禿げそうだからうちの商品を買え」ってのはいくら何でも説得力なさすぎ。せめて「お客さん、ご親族に頭の薄い方とか、いらっしゃいます?いやね、実はね、お客さんの髪の毛、もともとはすごく丈夫そうなんですけど、ちょっとこの日焼けがずいぶんひどいのが気になりましてね…」とか、言葉の綾の駆使の仕方ってもんがあるでしょうが。

 それともあれかな、やっぱり説得するには数字とビジュアルを使ってやらにゃ、てことかな。例えば頭に霧吹きで水をかけている最中に頂上の髪を1本プチッと抜く。んで検査機にかけ、毛根の成分比率とかをガスクロでさっと検査して、さらに顕微鏡写真を標準の毛根の写真と並べてインクジェットプリンタでプリントアウトし、カットの終わったお客さんに見せながら「お客様の頂上部と額上部の頭髪の毛根をちょっと調べさせていただいたんですが、標準の毛根に比べて皮脂や汚れが多くなっておりまして、頭髪年齢はもう56歳、あと数年でいっせいに定年退職じゃなかった、抜け毛が一気に増えるというサインが出てます。ま、危険信号ですね。これ以上の診断と処置のアドバイスをお求めになりますか?」などと語ってくれたりするとものすごい説得力と危機感が漂うな。

 理容店業界向けのサプライヤーで、そういう脅迫ソリューションを考えついて実践する人ってのは誰かいないのだろうか。そもそもQBネットの登場以降、理髪店では「髪を切る」以降のプロセスのサービス価値というのが急速に薄れている。お客からすれば、「だいたい髪だけ切ってくれれば10分1000円ですむものを、人が座って身動き取れないのを良いことに勝手に洗髪だのシェーブだの俺様が自分でもできるような余計なことばかりしやがって、俺様の顔中血だらけにしたうえに俺様の貴重な30分の時間と3000円の追加料金ぼったくるとは不届き千万」とか思われているわけだ。だったら気持ちよく4000円を払ってもらえるように、カット以降のプロセスに理髪店でなければできない付加価値というものを付けられないかどうか、もう一度考え直してみたらどうか。

 既に理髪店業界において使われている最も安易な手口は、「洗髪やマッサージを可愛い女性理容師がやってくれる」というもので、前に住んでいたところの駅近くにある理髪店はカット、洗髪、シェーブ、マッサージ、整髪をすべて違う女性理容師が入れ替わり立ち替わりやってくれるというシステムを導入していた。入口には怖い顔の置屋のお婆さんみたいな店長がどっしり構えており、店内を忙しく走り回る若い美人女性美容師たちを見張りながら「○○ちゃん!次、そこのお客さんに洗髪!早く!」とか時々叫んでいる。理容師たちは交替するたびにいちいち「よろしくお願いしま~す!」と黄色い声を上げながら客に向かって深々と頭を下げてあいさつするので、そのたびにワクワクするというか、まあ普通の男性なら若い女性に優しく頭や顔を触られたりなでられたりするのが嬉しくないわけがない。実際その理髪店はすごい勢いの流れ作業で進める30分のカット1回に対し4700円と法外な値段を取るにもかかわらず平日も客足が絶えず、土日ともなると黄色い声のお姉ちゃんたちに顔をなでてもらいたい男どもが朝から晩まで長蛇の列をなしていた。これはどうみても理髪店ではなくて風俗の一形態である。もうね、アホかと。バカかと。

 しかしこのシステムは一方で店の中に少なくともカット・洗髪・シェーブ・マッサージ・整髪役の5人の美人女性理容師が常駐していなければならないという欠陥を持っており、客が大量に集まる繁華街でならまだしも、うちの家の近くのそのあんちゃんの店のように、休日でも理容師が3人そこそこいるだけのようなヒマな店では到底成り立たない。やっぱりここは頭髪検査設備に投資して、今日は3000円ぽっきりと思って来店した1人のお客さんに、あれよあれよという間に皮脂含有量の検査データとびっしり汚れがまとわりついた毛根の拡大写真を見せながらパワーアップ・クレンジング・シャンプー・アンド・スカルプケア・マッサージのキャンペーンを納得させ、気が付けばコンサルティングフィーを含めて8000円を巻き上げて「これできっと髪の毛すっきり、毛根ぴかぴかですよ!」なーんてさわやかな声をかけて見送るような科学的理髪サービス営業システムを構築してみようという理髪店、あるいは理髪店向けのサプライヤー企業はないものだろうか。あったら面白いんだけどな。でもそんな店には僕は絶対行かないと思う。マジ怖いから。やっぱりQBネット最高。あれ、何の話でしたっけ?

Author: "R30" Tags: "日記・コラム・つぶやき"
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Date: Thursday, 07 Sep 2006 15:32

どうなんだろうかね。こういうのがただの偶然であるはずもないし。ここでは人の意識は連鎖する。

http://eiji.txt-nifty.com/diary/2006/09/post_d12b.html
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20060907/1157620305
http://plusd.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0608/28/news013.html

 まあ、いろいろあって、いろいろ難しいですな。実際、ぶっちゃけ分かる相手にしか語りたくない、余計な言葉は控えたいみたいなところでもあるし。

 端的に言っちゃうと、要するに「もはや知的生産の道具としては役に立たなくなった」ということなんじゃないかと。パーソナライズドされた検索結果から機械的に知的生産に役立たないゴミクズを「見えなく」し、しかもゴミクズからの一切のアクセスを禁じるという技術が生まれないと、どうにもならない気が。でもそれって結局人でフィルタするしかないわけだし、つまりはSNSっつーことじゃないですか。じゃあブログでやる意味なんか、ないよね。

 で、Voxどうよ?つー話になるのかもなんだけど、ちょっといじってみて思ったのは、「自分で読んでもらいたい人登録するなんてめんどくさい」、この一点に尽きる気がしましたですよ。mixiに行けばたいてい誰でもいて、その中からリアル知り合いをマイミクで選んでいけばいいだけなのに、いちいち招待しなきゃいけないVoxって何?しかもレイアウトちまちましてないし(笑)。

 つーかVoxがmixiとかGREEのクッキーをそのままぶっこ抜いて、mixiのIDで認証とかしてくれれば、万事解決するような気がするんだけどな。要するに勝手に他のSNSのIDとつないで、バーチャル分散SNS化すればいいんじゃね?とか妄想したりするんだけど。作ってるのが6Aだけに、そんな日本の特殊事情には合わせてくれないんだろうな。

 ま、例の方なんかもあと数年したらPC使ってる奴のほうがデジタル・ディバイドって呼ばれるようになるぞって予言していらっしゃるし、そろそろこの界隈も卒業のしどきなのかもね。こんな時間まで連日仕事に忙殺されている今日この頃、ぼんやりとそんなことを考えてみましたよ。ではでは。

Author: "R30" Tags: "メディアとネット"
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